【気まぐれ日記】やさぐれています

気まぐれ日記です。(会社側から何か指摘や忠告を受けたわけではないのですが)、ここ最近仕事が本当に怠くてやさぐれながら働いていました。それまでは「会社のために頑張ろう」というピュアな気持ちもあったわけですが、今はほとんどそれがない。どういうやり方で働けば正解なのかわからないため、ゆっくりと部屋の酸素が薄くなっていくような、苦しさ、ストレスを感じるわけなのですよね。

とりあえず仕事のことを脇に置き。先週から狂ったように本を読んでいました。読書していると、嫌なことを忘れられますし。それに、読んでいく冊数が増えていけば「今週これだけ読めた」という達成感が得られる。八方塞がりな状況でも「前に進んでいる」感覚があるのは、ちょっとうれしいじゃないですか。それで、狂ったように(言葉に品がない)本を読み倒していました。

読んだのはグレアム・グリーンや新書、前回の群像新人賞当選作など。3日に1冊(作品)のペースくらいですね。これがわたしの読書速度MAXです。

その傍ら、小説も書いたりしていました。note用の短編を書き上げ(あとで掲載します)、公募用に新しい小説を書き始め……このように何か行動に移していたわけです。行動していないまま、悩みを抱えながら時間が過ぎていくのは、わたしにとってとても苦痛。ですが、少し過活動気味の感も否めません。

とはいえ。仕事の不安が完全に消し去ったわけでもないので、明日ハローワークに行ってみたいと思います。すぐ転職活動するわけではありませんが、情報収集のためです。

そこでいったん考えてみると……。今の仕事がダメになったら(会社都合・自己都合で)、わたしは何のスキルで戦っていけばいいのだろうか……、と不安がよぎるわけです。仕事で評価されたこともありますが、特殊な職業なので他の職業にも応用効くスキルなのかわからず。それに、体力もありませんし、仮に運よく転職できたとしても適応するのに相当時間とコストと精神力がかかるだろうなあ、と考えて憂うつになっています。

わたしは障害者であるため、本当なら福祉の事業所と連携してサポートを得ながらキャリアについて考えたい気持ちもあるのですが、どうやらわたしの近場にある事業所は多忙のきわみゆえ、サポートをお願いするのは少し厳しい感じ。

それに、一度転職(経験がある)していますしね。ひとりで動けると思われているのだろう、と。

もうやってられねぇ。と、やさぐれています。結局はひとり立ち上がり、動かなければならないのかー、と。働く気力もないのに、動くのはすごくめんどくさい。けど、動かなければいざというとき、苦しむのは自分ですからね……。実家には戻れないし。

最近腹が立ったことは(といっても瞑想しているので、興奮状態ではないですが)、福祉関連の人の言葉です。自分の環境が改善するきざしが見えず、福祉サービスは生涯利用することになるのでは? 卒業することができないのでは? という悩みがあると話したのですよね。それで相手の人は「ふじこさんならある日とつぜん卒業できると思いますよー」と返してくれて、それはそれでよかったのですが。

「きっと作家になって人気者になって、芸能人に囲まれたりしてー」

と言われて、その言葉になんか腹が立ちました。心が狭いですよね。冗談のつもりで言ったとわかっているものの、小説家を目指していることを茶化しているようにも思えて腑に落ちなかったのです。仮に半分本気で言ったとしても、そういう幼稚な想像力(人気作家になってテレビに出て、きらきらした人たちに囲まれてウハウハ)でうきうきわくわくしているような人間とみなされているのかな、と感じてしまう。端的に言って、腹が立ちました。

ソンナコトデショウセツカヲメザシテイルワケジャナイ

片言の心の反駁は届かず。しかも、これが一回じゃないのですよ。他にも福祉関連の別の人からも「ふじこさんからサインもらわなくっちゃ」「先生と呼ばさせていただきます!」と言われてしまい。「相手は冗談で言っている」とわかってはいるのですが、やはりそういう幼稚な想像力(文豪になって、大学の教鞭で演説して、サイン会開いてファンに囲まれるウハウハ)を広げ、小説家に期待している人間とみなされているのではないか、と。

これは単にわたしのプライドの問題です。

でも、あれかな。第三者から見れば、「小説家を目指している」ということ自体が夢に溢れているのかも。言い方を変えれば、現実的な考えではないと思われているのかもですね。これがもし、わたしが何かしら小さな賞を獲ったり、選考に残ったりするのならば、彼らは茶化さずもう少し現実的に(考えられる未来として)見てくれるのかしら。

そう考えると、福祉関連の人のオーバーな言葉で、”プライドが傷ついた”のは、成果を出せない劣等感が原因なのかもしれません。

はあ……(ため息

それにまだ去年の入院のことも引きずっています。退院したあとはなんとか自分で納得しようとしていましたが(認知的不協和を解消するみたいな)、その数か月あとに入院時の(後悔の)いらいらがぶり返してきました。結局のところ、去年の入院で得たものがないのですよね。あるとすれば、いまどきのアイドルみたいな男子中学生に若く見られて(同世代だと思われ声をかけられた)、まだわたしは老けていないんだ! やった! とぬか喜びをした思い出しかありません。(中学生にみられて喜ぶミドサーの思考も何か問題あると思いますが

入院前と退院後で環境面(と精神面)で変化はなく。ただ、退院を急いでいたのは「病食がめちゃくちゃまずい」+「基本人と会話せず部屋に引きこもる」という入院生活が耐えられなかった。なかなかわがままですよね。

ということで退院したわけですが、そのあとも希死念慮とたまに不眠傾向、抑うつ感に苛まれながら仕事をやり。人生の喜びとは?? と疑問に思いながら生活していました。わたしの人生は恵まれているところもありますが、基本ハードモードです。

そういえば、子どもの頃願っていたことがありました。「平凡な人生は歩みたくない」と。皮肉にもその願いは叶ってしまったようです。

結婚して子ども産んで……という女性のライフイベントみたいなものは想像できなかったな。子どもの頃から性格やコミュニケーションにやや難があり、責任を持つことが難しいだろうなとはうすうす感じてはいました。今の人生(独身・障害持ち・非正規雇用)は自主的に選んだものとはいえないけど、これが自分に適した生き方のような気もする。

でもやはり寂しいのは寂しい。ということで、noteに赤裸々に書き綴りました。書くことが唯一の、社会との関わりのような気がするから。

それでは次回、短編小説を投稿したいと思います。



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