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【近況・雑談】運動/海外文学と比較した日本文学の印象など


<近況報告:運動しています>


お久しぶりです。しばらく、更新止めていたらnote側から「5か月連続投稿になりますが、今日も書きませんか?」という通知が来ました。なんてまめなんでしょう、noteの通知。

更新途絶えていた間にしていたこととすれば、

・仕事(捗らない
・読書(まあまあ
・創作(途中から捗らない

……相変わらず冴えない日々です。いつものごとく言い訳してしまうのですが、睡眠リズムがやはり整わなくて、目や頭が疲労して知的作業が捗らない状態でした。そこで改善策として、夕方~夜にかけて自宅で筋トレと足踏みする運動を取り入れたわけですよ。以前からヨガや筋トレはやっていたものの、汗もかかない程度の軽い運動だったので強度を高めていこうかと。

そしたら、睡眠の質が上がってぐっすり眠れるようになりました。汗かいて心拍数上げることが大切なのだなあ、と感じましたね。もうこれは日々の習慣に取り入れなくてはならぬ。

ということで、ネットフリックスで韓国ドラマ観ながら足踏みしています。寝るために、読んだり書いたりするために、運動は必要……!

<雑談:海外文学と比較した日本文学の印象(持論)>

近況だけだとつまらないので、日本文学って〇〇だよね、という雑な印象を話したいと思います。あくまでも独断と偏見なので、根拠はありません。

海外文学を読むようになってから、気づいたことは「日本文学って少し……変態っぽいよね」というもの。すごく失礼な話ですよね。ただ、この”変態”には性的なものを含むというよりかは、「変人だよねあの人」という変わり者のニュアンスが強いです。(語彙を知らないのでふさわしい言葉がわからなかった

私の読む海外文学がリアリズムの作品が多いということもあるのですが、日本文学ってたとえていうならドイツの作家、フランツ・カフカ的な作風と親和性が高いと思っています。「異化」する感じですね。※

※異化とは、下記のような意味だと解釈しています

慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法

(引用元:Wikipedia)

芥川賞作品で言えば、川上弘美の「蛇を踏む」みたいな印象ですね。阿部公房作品も近いかも。身体の一部が別の生き物になったり、あるいは動物が人間のような動きをしたり……設定としては現実社会なのですが、日常が非日常化する少し奇妙な要素を取り入れているものが多いと感じます。

だから私が日本文学を読むとき「これはどう解釈すればいいのだろう?」と、戸惑うことが多々あって、でもそれは(シュールな作風)は解釈不要とも言えるかもしれません。ただ、ロジックに収めるのではなく、絵画を観たときの感動、風景を見たときの感動を、人生におこる不可思議な出来事への戸惑いなどをそのまま受け取るもの、感情を動かして味わうものなのかも、と思っています。

一方、それは同時に読者が「自由に解釈していい」余地がある、とも思います。(前提として、著者は読者の想像力をコントロールできないので、どの作品にも当てはまるものですが)解釈するのが難しいからこそ、読者の想像の範囲が広がるものかもしれませんね。

過去に、別のブログサイトで作家志望の人のブログを読みに行ったとき「脚が変な生き物になる話」などトリッキーなものを書かなくては賞を獲るのは難しいのではないか、と悩んでいる人が一定数いました。そして私も恥ずかしながら、生き物系にはいかなかったのですがとにかく「変な話」を作らなくて文学ではない、という強迫観念にとらわれていたときもあります。

※そのもっと昔は性描写を書かなくては文学ではない、とか謎の強迫観念がありましたね。

実力や技術の有無もあるとは思いますが、狙ったものは引っかからなかったです。黒歴史だけがUSBメモリに残りました。

今の文芸誌は追っていないので、「異化もの」がどれくらい多いのかわかりませんが、社会的な関心事を取り扱っているものが新人賞で受賞作となっている空気は感じとっています。たとえばLGBTQ、女性の生きづらさ、障害者、人種差別……。内側ではなく(自己との葛藤)、外(社会)に向けられている、メッセージ性の強いものが多くなっているのかな、と。

日本文学がどう変化していくのか――、それを傍らで観察しようと思います。同時に今、私は何を書きたいのか、何を書き続けていたいのか。その問いかけをしながら、創作をちまちまと続けたい。正解のない世界なので、これがウケるとか狙えるとか計算せずに、自分の直観を働かし、考えることが大切なのかも、と思っています。

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