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【掌編小説】孤独な隣人

 電子レンジが唸る音と同時に優花は目覚める。唸っている電子レンジは優花の部屋のものではなく、ひとりで住む隣の中年の男のものだった。それでも優花はその音が煩わしくなく、むしろそれのおかげで好ましい気持ちで目覚められることに感謝していた。ひとりで暮らしてから3か月。暮らし初めた頃、夜には孤独が続く恐怖に怯え、朝には現実を迎える絶望に耐えていた優花は、次第に隣人の物音に耳を澄ますようになった。自分が孤独であれば、同じアパートに住む隣人もそうなのではないか。実際、薄い壁から隣人が誰かと電話をしたり、客を招いたりする音は聞こえてこない。電子レンジと洗濯機と、昼時に掃除機の音がたまに鳴るだけだった。
 優花がひとり暮らしをする前は、透と一緒に暮らしていた。
 新入社員として入ってきてから、透はまめに優花に声をかけてくれた。エクセルの使い方がわからない、と言えば他の上司は息を吐き、信じられない顔で優花の顔を眺めていたが、透は違った。隣に立ちながら、優花にどうすれば効率的に情報を処理できるのか簡明に話し、優花が愚かな質問をしても表情が変わらなかった。不器用な優花は、面倒見がいい透を頼り、頼りながらそこに恋愛感情が交じるのを感じていた。それに透の理性的な目元は、大学を卒業して別れた恋人を思い出させた。
 でも透はすでに結婚していた。ただの憧れの人、そんなふうに割り切り透といつものように仕事の質問をしていたら、仕事終わりの用事を聞かれた。優花が正直にコンビニで総菜買って帰るだけだと話すと、それなら俺と一緒に飯食べに行かないか? と誘われた。既婚者だとわかっているのに、優花の胸は踊った。
 今思えばあのときにやめておけばよかった。優花は冷蔵庫から牛乳を取り出しながら、思い返していた。透の誘い方は異性に対するというよりも、同性の友人に対するもののように自然だった。なんの下心もない、というふうに。それが優花を安心させたのかもしれない。あとから透の女癖が悪いことを知った。
 優花が透と一緒に暮らせたのは、妻から奪えたというよりも、妻に捨てられ、優花のもとに透が流れついたといったほうが正確だろう。透は誠実さを示したいがため、生涯愛することを誓い結婚をしたが、まもなく透は別の女のもとへ去っていった。スタンプラリーを押すように、結婚と離婚を抵抗なく繰り返す透に呆れながら、そんな男に引っかかった自分も許せなかった。
 でも今はその思いも薄らいでいる。牛乳を温め、少しずつ飲んでいくと、胸からお腹にかけて熱が広がっていくのを感じる。スマートフォンでTwitterを開いて、透のアカウントを表示する。透のアイコンは台湾で撮った自分の写真だ。出会ったとき、理性的に見えた目のあたりは今では、嘘をついている目に思える。ツイートは先週で止まっていて、仕事帰りに寄った店の寿司を写していた。ひとりで行ったわけではないだろう。そんなことを考えて、嫉妬を意識する前に画面を閉じた。
 隣に住む男が盛大にくしゃみをして、優花は思わず声を洩らして慌てて口に手をやった。それからおかしくなって、マグに唇をあてながらクスクスと笑う。そう、これが現実なのだ。透と別れてから、自分は不幸だと酔いしれ、毎晩多くの酒を飲み不運な自分を痛めつけるように甘やかした。でも、そんなときに隣から男のくしゃみやゲップやおならや素っ頓狂な声が聞こえると、自分さえも喜劇のなかにいるような気がした。
 今日は生ゴミの日だ。優花は朝食を食べ終えると、生ゴミをまとめ、スウェットの上にカーディガンを羽織り、玄関を出た。生ゴミを入れるボックスに、ゴミ袋を入れたら、背後に誰かが立つのを感じ、振り向く。――隣の中年男だった。
「あ、おはようございます。すみません、ちょっと入れさせてもらっても――」
 優花は場所をどけて、中年男がゴミ袋を投げるのを近くで眺めていた。中の生ゴミの袋からは、牛乳パックの切れ端みたいなものが透けて見えた。
「――最近、寒くなりましたね」
 声をかけるつもりではなかったが、優花は中年男に話しかけていた。中年男は優花のほうを振り向き、少し驚いた顔をしていたが、やがて笑みを浮かべて「そうですね。今年は早いうちから雪虫飛んでますから」と言って、静かに頭を下げて階段のほうへと歩いていった。優花はまだ話したりない気がしていた。何も話すことはないのに。
 中年男が部屋に入るのを下から見届け、優花も階段を上る。中年男、と呼んでいたが、顔を見たら若い顔つきをしていた。ただ、白髪がやけに多い。透より年上であることは確かだった。
 階段を上がりきり、玄関ドアの前に立ったとき、優花の手の先に水色のひかるものが過った。不安定に揺れながら過るそれは、雪虫だった。今年、初雪を見るときは、ひとりだろう。優花はそう思い、ドアを開けた。やっと慣れ始めた部屋の匂いがし、優花は電気ポットに水を注ぎ、お湯を湧かした。初雪を見るとするのなら、この部屋で見たい、と優花は思った。孤独な隣人がいるこの部屋で見るのなら、今年の初雪は悪い思い出にはならない。優花はコーヒーを入れ、マグに口をつけると、今日2回目のくしゃみが隣の部屋から聞こえて、優花は小さく声を上げた。

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