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やすらかに眠りなさい

 離さないで、と浩一はいった。少し怯えた声で、離さないで、と強くいった。
 眠る間際になると、いつも浩一は不安がった。私がベッドから離れようとすると、浩一はびくりと身体をふるわせて、私の腕を引っ張った。どこにいくの? 行為のあとだから、なおさら、浩一は不安になるらしかった。
 どこにもいかないよ、ただ水を飲むだけ。そう答えて、ようやく浩一の顔が少し緩んだ。すぐ戻ってきてね、と浩一はいう。でもその声に、もう怯えは混じっていない。
 冷蔵庫を開けて、エビアン水を飲んだ。浩一は、明かりのついていないリビングに横たわって、静かにしている。私はコップのふちに唇をふれながら、浩一の姿を静かにみつめた。浩一は、ねぇ、香織さん、と呼びかけて起きあがった。
 早く、こっちに来て。浩一は、少し甘ったれた声をだした。

 離さないで、と浩一はよくいう。ひとりでいた時間が、長かったんだ、ずっと寂しかったんだ、だから香織さんが離れるのが嫌なんだ、そんなことしたら、俺、どうなるかわからない。浩一は、つきあい初めの頃、そんなことをいっていた。いいながら、顔の色が、どんどんくすんでいった。そして混乱して、頭をふって、泣きそうになることもたびたびあった。私はそのたび、離れないよ、と約束した。

 薄闇のなか、浩一の眼鏡のレンズだけがひかった。浩一を、ときどき、怖いと思う。でも、その怖い、のなかにいくぶんかの、愛しい、が含まれている。怖いくらいに、愛しい。そんなふうに、恋愛を始めるのは、初めてのことだった。
 私は浩一のもとに戻った。寄り添うと浩一の、青いニットセーターが、頬にちくちくとささった。私を抱きながら、浩一は、香織さん、俺のこと、ほんとうに好き? と確認する。好き、と答えても、なお、ほんとう? と聞かれる。浩一には、好き、という言葉だけでは満足させられないらしい。身体だけ、というのも不足している。身体も、心も、言葉も、すべて、浩一はほしい。
 好き、好き、好き。といいつづけると、自分の心が不確かになる。言葉を繰り返すほど、感情や想いが目減りしていく。だから、私は黙って、浩一の胸に額をつけた。浩一の心臓の音を聴いていると、目減りしていった、想いが少しずつ増えていく。

 愛されているという実感のないまま、私と浩一はいつの間にか、大人になってしまった人間だった。

 浩一は、ふたりきりでいるとき以外はきちんとしている。
 メールの文書は丁寧だし、マナーにもうるさい。腕時計やハンカチを忘れたことなどないし、お気に入りの手帳には分単位で毎日のスケジュールが記載されている。新しい機器を使うときは説明書を最初から最後まで読み通す。どたきゃんすると、浩一は混乱する。でも、時間がたてば、ちゃんときちんとした浩一に戻る。
 浩一とは、病院で出会った。精神科の病院。診察終わりに、病院の庭を歩いていると、前から浩一が歩いてきた。きちんとした身なりをしていたので、新米の医者かと見間違えた。浩一を、じっとみていると、浩一が「こんにちは」と挨拶をした。私はそのとき、浩一の低い声に、胸の奥をくすぐられた。
 それからたびたび、病院で浩一を見かけるようになった。ラウンジでコーヒーを飲んでいるとき、浩一が隣に座ってきて、話すようになった。浩一は、あまり私のことを詮索してこなかった。私も浩一のことを詮索せず、他愛のない話(たとえばフィギュアスケートとか引退した大物歌手のことだとか)を、していた。
 連絡先を交換するようになって、浩一とつきあうようになった。メールのやりとりからの交際は、すごく短かった。互いに、寂しかったのだと思う。それだけの理由で、私たちはお互いの空白部分を埋めるために、会うようになった。
 会うようになってからの、恋人らしいことへの進展も早かった。浩一は欲望が強いわけでもない。でも身体をつなぐことをしないと、不安になるらしかった。最初、私はそのことに戸惑ってはいたが、浩一と肌を合わせるうちに、行為のない日を、不安に思うようになっていった。

 ふたりとも、似ているね。と、よく浩一はいう。

 私はそうは思わないのだが、そうだね、と返す。

 浩一に出会う前は、私という個人が、もっとはっきりしていた気がする。浩一と出会って、浩一の感情が風のように私に流れてきた。流れてきて、浩一にならされてきた。そうなると、浩一と、私の境界線が不鮮明になり、自分にも浩一の心があるような気になっていった。初めから「似て」いたわけではなく、次第に「似る」ようになっていったのだと思う。

 浩一との境界線が曖昧になると、困ることがあった。

 浩一を愛さなければすまなくなるのだ。

 離さないで、と浩一はいう。私は、離さないよ、と返す。でも、次第に、私の方が強く「離さないで」と思ってしまう。

 困ることに、自分の方からそれをいうことができないでいる。

 私から「離さないで」、といってしまったら、浩一は、その瞬間おののくのではないか、という危惧を持ってしまう。浩一の愛よりもずっと追い越してしまった私を「怖い」と感じてしまうのではないか、と。

 今、浩一は私の手を握りしめている。握りしめながら瞼を閉じ、ようやく安らかに眠りにつくようだった。握りしめられるのは、私を、まだ「怖い」と感じていないからだ。浩一の愛は、ときどき怖い。自分自身を揺るがすものだから、怖い。ほんとに愛される、ということをしらないまま大人になったから、そう思うのだろう。無防備に、無条件に、捧げられる愛を前に戸惑ってしまうのだろう。

 なら浩一は?

 愛されることをしらないから、愛することもわからなかった。

 そんな私が、浩一に与えられるものとはなんだろう。

 浩一の髪をなでて、眼鏡をそっと外してあげた。

#短編小説 #恋愛小説

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