見出し画像

【掌編】空想ごっこ

 シャンプー、変えたんだね。香りが違うや。
 ユウトはわたしの首筋に鼻を埋めて、息を吸った。それから、わたしの髪を指先に絡めて、これってノンシリコン? するっとするね、と髪質を確かめている。くすぐったいな、とユウトから離れようとするけど、ユウトの腕はわたしの腰を抱いたままで、軽く力を入れて引き戻そうとする。逃げちゃだめ。くすくすと笑いながら、首に唇をつける。あー、ココナッツの匂いがする。ユウトは目をつむって、その独特の香りを感じている。
 それから……その先はうまく描けない。描こうと思えば、わたしはいつだってユウトの存在を探すことができる。でもそれが必ず成功するわけではない。いわゆる、幻覚とは違う。これは、空想ごっこ。わたしを守ってくれる、空想ごっこ。
 ベッドに横たわり、瞼を開いた。昼間から降り続いている雨は、強さを増して窓を叩いている。部屋のなかに、不穏な空気を感じてわたしは部屋の照明をつけた。少しだけ明るさを落とし、そしてまたベッドに寝る。でも、ぜんぜん眠たさを感じない。不安感なのか、焦燥感なのか。明日もやってくる、リモートワークにまだ慣れていないからなのか。
 また俺から逃げようとしたでしょ。
 いつの間にか隣で寝ているユウトに、腕を掴まれる。ユウトの長い前髪から、濡れた瞳が見える。まるで従順な飼い犬みたいな瞳。
 俺を犬だと思っているの? たとえだとしても、ひどいな。
 わざと不機嫌さを装って、ユウトは眉を潜めた。
 たとえでもダメなの?
 従順な飼い犬、って言葉がまさに見下されている感じ。俺をもっと尊重してあげてください。
 じゃあ、ビー玉みたいな瞳。
 それ、ありがち。というか、ビー玉で遊んだことあるの?
 たとえの話じゃない。ビー玉で遊んだことのある世代だよ。
 ふーん。だったら、俺よりも年上だね。はるかに。
 勝ち誇ったように、ユウトは眉を上げて笑った。とっても嫌みな感じがする。それからわたしは、ユウトの目を見ながら別の比喩を探した。シャボン玉に映る虹みたいに純粋な瞳。そして世の中の裏側も知っているかのような、暗い瞳。
 俺の瞳で、俺のすべてを語ろうとしている?
 すべては語れないじゃない。瞳の比喩で。
 世の中の裏側なんて知らないよ。チカの心の裏側なら、少し読めるけど。
 わたしの考えていることがわかるの?
 うーん、どうやったら仕事をさぼれるかとか? あと、俺をてなずけるにはどうしたらいいか。
 茶化さないで。まじめに聞いたのに。
 少なくとも遠くはないでしょ? 俺はチカから生まれたのに、思い通りに動いていないし、チカの都合のいいことばかりを言えているわけではない。
 確かに……わたしは黙ってしまった。ユウトを描けば描くほど、ユウトはわたしの手から離れていく感覚がした。そしてわたしの周りの誰より、本当のことを怖れずに言えるのもユウトだった。
 眠れないのなら、俺が抱きしめてあげる。まるでお母さんのように。
 それを言うならお父さんのようにじゃない? わたしは言いながら、ユウトの腕に促されるまま、抱きしめられた。
 チカにはお母さんがいないから。俺がお母さんの代わりになるんだよ。
 耳元でユウトは囁いた。そしてわたしは理解した。ユウトがわたしの心の裏側を、本当に読めるということ。
 ユウトはわたしの頭を撫で、そして髪を梳いた。このまま、一緒にいられたらいい、と俺は思っている。わたしは、うん、と言っただけ。ユウトは吐息のようなものを洩らしたけど、わたしはユウトの心を読まないようにした。この空想ごっこに終わりが来るのを怖れているのは、わたしよりもユウト。そのことをわかっているから、ユウトに約束できなかった。
 チカの心、また読めたような気がする。
 それだけ言って、ユウトは――消えた。消えたのではなく、わたしがその先を描くのをやめただけ。ユウトに抱きしめられている、そう感じていたら静かに眠りが訪れた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?