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いつか消滅するとしても EP.8

 隣で寝ている優の傍で、僕は弘子に返信した。空いているよ、ちょうど休みだし――そう打ち込んで、スマホを枕の横に放るように置いた。優に向けた背中に、優の体温を感じる。よく耳を澄ますと、優の寝息は嘘だった。
「明日の夜、出かける」
 振り向かずに、背を向けたままで僕は言う。優の嘘の寝息が止まり、かすかに身体をずらす気配を感じた。
「いってら」
「用済ませたら、すぐ帰ってくるから」
「……とりあえず気をつけて。いろいろと」
 わざとらしく欠伸をすると、優は枕を引き寄せ、胎児のような格好で横になった。僕は起き上がり、「言っとくけどな、弘子となんかしない」と呟いた。優は返事をしない。
 暗がりの中で、布団にくるまった優の身体は心許ない。強く掴めば、折れそうなくらい華奢な腕、耳だけがやたら大きい小さな顔。もちろん、その顔には愛していた頃の優の面影が残っている。だけど――。
「けど、俺ともやらないんでしょ」
 優が僕のほうに顔を向け、三白眼の瞳で冷たく非難するように、僕に小さく反論する。どく、と心臓が鳴り、早く否定しないと、と気持ちは急くのに、言葉を選びだす思考が働かない。やがて優は、戸惑って無表情になっている僕のことを、少し哀れむように、微笑み直して、「まあ、どっちみち俺の身体じゃできないもんな」と、顔に布団を被せて背を向けた。違う、ととっさに口を突く言葉に継ぐ言葉など出ない。愛したくないわけじゃない。愛せないんだ、ということを優に説明したとしても、それはあまりに酷だ。僕は立ち上がりベッドから降りて、キッチンで水を飲んだあと、煙草を一本引き抜き、口に咥えた。蛇口からは、とん、とん、とん、と、緩んだパッキンのせいで落ちていく水滴たちが、トタン屋根に降りた雨音みたいに、暗い部屋に鳴り響き渡る。
「……俺だって、やりてぇよ」 
 優に聞こえるか聞こえないかの声が、水滴とともに、排水溝に押し流されていくように消えていった。

 ●

 待ち合わせ場所はいつも通り、駅ビル内のスターバックスで。
 弘子からそうメッセージが来ると、僕はシェイバーで髭を剃り身支度を整えた。優は一人掛けソファに座り、膝の上で自分のパソコンを開いて、午前からずっと国内外の研究論文に目を通していた。僕が「行ってくるから」と玄関先で声を大きくしても、優の声は返ってこない。無視かよ、と軽く舌打ちをして、でもなぜかそのあと胸に残るのは罪悪感で、玄関ドアを閉めて外側から鍵をかけてやった。
 駅の改札を出て構内を通ると、スターバックスのガラス窓越しに、カウンター席に座っている弘子の姿が、目に入ってきた。無地の赤いブックカバーをかけた文庫本を読みながら、肩まで伸ばした髪をいつもの癖で、何度もわずらわしそうに耳にかけ直している。安西って、ちょっと暗いけどなんかそそるんだよ――学生時代、サークル内の男たちが弘子について、そう言っていたことを思い出す。でもどの男の誘いも、弘子は乗らなかった。そういうやつらだ、ということが、弘子にはわかっていたのかもしれない。
 じゃあ、僕は弘子にどう思われているというのか。
 窓越しに視線をずっとやっていたせいで、弘子が気づく。他の女みたいにとっさに笑顔にならず、時間をかけて表情を緩めていく弘子に、僕は口元だけで笑みを返す。そして、スターバックスのドアを開けた。
「……久しぶり」
 レジでアイスコーヒーを頼み、カウンター席にいる弘子の隣に座ると、弘子は恥ずかしそうに視線を逸らして、小さく言った。顔色も悪くないし大丈夫そうだな、と心の中で呟き、弘子の手元にある本を手にとり、題名を確認した。
「財務会計……の本?」   
「そう。小説だとすぐに読み終わるから、難しそうな本を選んだの」
 そう言ったあと、わたし暇人だからさ、とそっと笑った。
「仕事も最近、残業なくて……、ひとり部屋にいるといろいろ考えてしまうんだよね」
「いろいろとね」 
 と言いながら、弘子はどこに誘導しようとしているのだろう、と考えていた。
 卒業したあと、弘子は僕と同じく、正規の社員にはならなかった。何度も面接で落とされ、それで激しく落ち込むことはなかったけど、「わたしには適正がないのかも」と僕らに洩らし、オフィスで働けるバイトを探し始めた。適正がない、といったのは本心かもしれないが、弘子自身、雇用形態に関してこだわりがなかった。僕と同じく。
「いろいろと考えて、沈んでいたんだ?」
 弘子に向き直って、率直に聞いたら、弘子は少しうれしそうな表情をした。マグの縁を指でさすりながら、
「……寂しくなって、俊介にLINEしちゃった」
 うつむき加減で少し茶目っ気を見せて、弘子は言う。寂しくなって。そういう言葉を、卒業したあと弘子はよく僕に向かって言ってくる。寂しくなって、と言ったら、優に向いている僕の視線を束の間でも、自分に向かせられるかのように。
 でも、そういう作為も、僕には重たく感じるのだ。
「……俺は、カウンセラーじゃないんだけど」
恋人じゃないんだけど、と言おうとして言い換えた。
 弘子はマグのカフェモカを飲み、うなずく。わかってる、ごめんね。ほんとうに申し訳なさを感じているように、声をしぼめて言う弘子に、僕は嫌悪と、そして罪悪感を交互に抱く。こうして会うことが、ほんとうは弘子のためにもならないということ。でも会ってしまうのは、僕自身が自分を責めない理由づくりのためだということ。
 あ、そうだ。と、弘子は用意していたかのように呟き、スマホの画面を僕の前で見せた。LINEのアイコンをタップし、「須藤さん」という人物のトークルームをひらく。
「この人、職場の人なんだけど……」
 指先でスクロールしながら、僕にトークの内容を見せた。吹き出しがでているのは、ほとんど「須藤さん」という男で、一方的に弘子の私生活について詮索していた。
「……悪い人じゃないけど、しつこいんだよね」
 と言いながら、僕の顔色を伺った。弘子の意図がわかったので、「無視しろよ。相手にするとあとあと面倒になるから」と素っ気なく言った。すると、弘子はまたうれしいような顔をする。自立できない子どもみたいに、僕に心配されている、と思えるならなんでも喜ぶのだ。
「うん。あとは返信しないでいる」
 そう言いながら最後までスクロールしたところで、須藤さんという男が「安西さんを振った男は、何が理由だったの?」と聞く吹き出しを見つけて、肌が粟立った。それに気づいているのか気づいていないのかわからないが、弘子はスマホを僕からさっと離し、バッグの中にしまいこんだ。
「優は……元気?」 
 そう聞かれたので、さっきのLINEと地続きになっているような気がした。勘ぐる気持ちがでてきたが、弘子の瞳は純粋に僕を(僕と一緒に暮らしている優を)、心配しているかのような色を見せていた。
「元気だよ。今日も研究室に行けないから、家で論文を読んでいると思う」
 先ほどのことがあったせいか、つい意図せず、「研究室に行けないから」と事情を知らない弘子に余計なことを言ってしまう。弘子の瞳がさらに開き、「どうして研究室に行けないの?」と当然の疑問を投げかけてくる。僕は弘子から視線を逸らして、アイスコーヒーをひと口飲んでから、
「体調が悪くてさ……、まあ大したことないんだけど、天候がよく変わるせいもあるし」
 と曖昧に濁した。
 そう、と弘子は視線を下ろして、豊かな髪を片方の手の指で梳いた。
 かわいそうなほど、いとしくなる。
 あのとき、弘子からキスされた僕は、まだ優とは友人関係だった。いとしくなる、と言われ、そっと唇で唇を重ねられて、どう感じたのかをよく覚えていない。一瞬だけ、高校時代につき合った彼女とのことを思い出した。それと比べて、弘子の唇のほうが柔らかく温かだった。でも、それ以上は考えられなかった。顔が離れて、弘子の黒目がちの瞳に見つめられても、僕は弘子がそのとき期待しているようなことを言えなかった。弘子は寂しそうに微笑んで、視線を逸らし、「やっぱり、長瀬くんってドライだね」と言った。それから間もなく、静かだったバス停にようやく、一台のオレンジ色のバスが到着した。
 弘子からもらったカミュの「異邦人」は、途中で読むのをやめて今でも開いていない。
「混んできたね」
 弘子の声に気づき、背後を振り向いた。まだ大学にも上がっていないような女の子たちが、スマホを片手に持ちながらレジに並んでいる。女の子たちは、クラスの誰か(きっと男子のこと)について喋り、周りを憚らず大きく笑っている。僕は受け持っている生徒のことを思い巡らした。たとえば昨日、ミルキーの包み紙に電話番号を書いて僕にくれた女子生徒、氷雨瑞希のこと。彼女もこんなふうに、表情を大きく動かして笑うことなどあるのだろうか。塾での彼女しか見たことはないので、僕の中での氷雨瑞希は、無表情のままだ。
「弘子は、あれくらいのときどうしてた?」
 とうとつに質問され、弘子は目をきょとんとさせた。
「あれくらい? ……あぁ、まったく楽しくなかったよ。女子校だったんだけど、周りに全く馴染めなくて……俊介なら、わかるでしょ。クラスメイトの女子、みんな好きになれなかった。輪ができると、誰かの噂や陰口になる。そのおかげで、わたしは本が好きになったんだけどね」 
 もう過ぎたことだし、というように弘子は淡々と言う。僕はそうなんだ、と軽い相槌を打ってそれ以上話を広げず、その頃の弘子の姿を想像してみようとした。事実通り鬱屈としながら本を読んでいる弘子じゃなく、レジで並んでいる子たちみたいに、声を上げて笑っている弘子だ。偽善かもしれないが、なんとなくその当時の弘子には、笑っていてほしかった。弘子は、氷雨瑞希にどこか面影が似ていたからかもしれない。
「今のわたしを見てよ」
 上の空でいたら、心を読まれた。
「見ているよ」
 コンマ秒の速さで返す。弘子は笑う。破顔って、こういうときに使うのかもしれないな、というような笑いかた。久しぶりに見られて、少し心が動かされた。
 だからというわけでもないけど、
「今日、わたしの部屋に来ない? トマトカレーが残っているんだ」
 となんのいやらしさも込めずにさらりといった弘子に、うなずいてしまう。弘子は少し口の端を緩め、「お酒も買っておいて良かった」とひとりごとみたいに呟き、席を立つ。僕はプラスティックのカップに残っているコーヒーを底が見えるまで一気に飲み干して、弘子の後を追った。

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