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いつか消滅するとしても EP.10

 数日経っても、優の身体は変わらなかった。
 パチンパチンと、伸びた足の爪を切りながら、優は「細胞はきちんと変化しているから、そのうち大人に成長していくだろう」と呑気なことを言った。
「優が俺くらいの年になったら、俺は」
「白髪が生えてるか禿げてるか、のどちらかだよな」
 にっと優は笑って、すぐ真顔になった。
 いつもなら小言を言えるのだが、弘子との一件があって以来、優には何も言えなくなってしまった。
 別に馬鹿正直に「弘子とキスした」なんて言ったわけではないけど、あの日自宅に戻って、ポストに入っていたチラシ類をテーブルに置いたら、優に手の匂いを嗅がれた。「なんでそんなにハンドソープの匂いがすんの?」。その瞬間、僕の顔は不覚にもひきつってしまっていた。優はそれ以上何も言わなかったけど、僕と優の会話はそれ以降、あまり続かなく、倦怠期に差し掛かった夫婦よろしく、笑い合うことも減った。
 たぶん、(というか確実に)優は、僕と弘子の間に「何かが起こった」ことは勘づいていて、勘づいてはいるものの、深く追及してこないということは、僕のほうでそれを片づけろよ、という見えない圧をかけているのかもしれない。
 弘子とは、あの一件以来会っていない。ここ数日の間に、何度かLINEでやりとりしたけど、どれも僕が話題を広げず、僕のほうで完結させるような返信をしたため、弘子もそれ以上踏み込むことができないようだった。
「子どものままでもいいけど、仕事ができないのは困る」
 ふてくされ、先週ネットでまとめ買いした科学雑誌を読む優。勤務先である大学の研究室には、「来なくていい。頭を冷やしてこい」という旨のメールが至極丁寧な文体で届いたらしい。頭脳は大人よりも明晰なのにさ、と僕に不満を言っていた。
 アパートを出るギリギリのタイミングで、ネクタイを締め、リュックを背負い、優に「じゃあ、行ってくる」と声をかける。優は雑誌から顔を上げずに「あーい」と、だらけた声で返事をした。まあ、この前より気分は良くなっているのかな、と後ろ頭を掻きながら、ドアを閉め、鍵をかける。
 アパートの屋根の向こうの空は、どんより重たい鉛色をしている。最近、ずっと雨の日が続いていた。

 ●

 長瀬先生、と後ろから声かけられて振り向いたら、氷雨瑞希が傘を傾けて、僕に泣き顔に似ている微笑みを投げかけていた。予備校から駅に向かう帰り道の途中で、もう街は夜の色に染まっていた。
「あぁ。お疲れさま」氷雨、と言おうか迷った。氷雨瑞希は少し前に近寄り、わずかにうわずった声で「あの、氷雨瑞希です」と、しっかりと申し出た。緊張しているので、僕は思わず笑ってしまった。氷雨は、一瞬顔がこわばる。
「あの、わたし変なこと言いました……?」
 傘の柄を堅く握りしめ、氷雨はそう言う。いや、別に。ただの思い出し笑いだから。と言うと、そうですか……、と納得していない様子だった。
 一緒に歩こう、とどちらから誘ったわけでもないけど、予備校の前の大通りを氷雨と並んで歩く格好になった。並んでいるものの、氷雨はなんだか緊張が解けず、僕と異様に距離を置いて歩くので、街ゆく通行人が氷雨の傘とぶつかる。二度注意しても、ダメだなと思ったから、氷雨のサマーニットの袖を掴んでこちらに引き寄せた。氷雨はその瞬間、肩をびくん、と震わせた。
「あ、悪い。でも、他の人に傘がぶつかるよ」
「いえいえいえ……! わたしこそすみません。なんだか意識し過ぎて……」
 そう早口で言う氷雨の顔が、りんごのように赤くなっていくのが見えた。でも、一向にこちらを見てくれない。
 僕は、氷雨がなんで僕と一緒に歩いているのかがよくわからなかった。それで、この間のことを話題に上らせた。
「この前、もらったミルキーありがとう。久々に食べたなあれ」
 氷雨は顔が隠れるよう傘を傾けながら、どういたしまして、と笑いを含んだ声で言う。
「あのさ、俺に何か相談したいことでもあるの?」
 身体を氷雨に向き直して、僕は尋ねた。氷雨は少し後ずさりし、サマーニットの裾をぎゅっと握りしめながら呟く。
「相談したいこと……」
「ミルキーの包み紙に書いた電話番号。もし悩みごととかあるのなら、今聞くけど」
 すっと氷雨は傘をずらし、僕の顔を見上げた。どこか不安気な色をした氷雨の顔の前を、白い糸のような雨が傷をつけるみたいに走っていた。僕は腕時計を見て、まだ時間に余裕があることを確認すると、「どこか入る?」と氷雨を誘った。氷雨の翳りのある顔に、ぱっと色味がつく。それを見て、僕は弘子を思い出さずにはいられなかった。

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