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いつか消滅するとしても EP.7

俺って、女を好きになれないのよ。
 大学の読書サークルで優と会話をするようになって初めて、ふたりで飯を食いにラーメン屋に入ったとき、優はそう話した。
「女子のこと嫌いなの?」
「うーん……、そういうんじゃなくてさ。体質的に俺、女よりも男のほうがいいみたいなんだよね」
 僕は一瞬、言葉を失い、割ったばかりの割り箸の片方を落とした。
「ぶっちゃけ、引かれるとは思った」
「……マジ? だから片桐さんを避けてるんだ?」
 優は僕のほうを見て、感心したように「よく見てるよな。長瀬って」と言った。
 だからといって、長瀬を変な目で見ることはしないよ。絶対に。優は、そう約束して僕と煙草を共有した。
 学生時代の優は、僕とは違い、優秀でいつも学部首位の成績をおさめていた。サークル内ではあまり饒舌ではないが、ふいに口をひらくといつも奇妙な冗談を飛ばして、女子を楽しませていた。だから、そんな優を好きになる女子も少なからずいた。そのひとりである片桐さんは、優のことをいつも目で追うくせに、優と話すときはあからさまに目を逸らすので、僕は片桐さんの想いをすぐ読みとった。勘の良さは、優も同じだったみたいで、片桐さんから声をかけられると優は、いつも素っ気ない態度を見せた。
 ある日、帰り支度をしている僕たちに向かって、片桐さんから今度ある作家のトークショーに一緒に行かないかと誘われたとき、優は「ごめん。他のやつと行って」と冷淡な顔つきで断った。傍から見ても、優は片桐さんを(片桐さんの好意を)煙たく感じている、とわかるような冷たい目をしていた。
 ――期待させると、悪いから。
 バスに乗り、後部座席に座ると優はうつむいて言った。夕陽が車内に射し込み、優の右側の頬を照らす。そのとき、束の間だけ僕の心のなかで静かに波が打った。その理由がわからず、僕は窓の外側を流れる木々の色褪せた葉を、まぶしそうに見ていた。
 
 それからしばらくして、僕は優に対する欲望に気づいた。
 
 二回生になった頃、花見と称して、サークルの仲間と酒とつまみを持ち寄り、大学内で飲んでいた。そこに、弘子もいた。優もいた。でも、片桐さんはいなかった。
「しつこいから、振った」
 辺りを見渡して、サークルのメンツも変わったな、と言っただけなのに、優は僕の言葉の裏を読んで、そう言った。僕は遅れてから「そうなんだ」と気も利かない相槌しか打てなかった。なぜか優はふてくされた表情で、缶の酒を次々と空けてヤケ気味に飲んでいった。
「……俺には、人を愛する資格がない」
 酔いが回って頬を赤らめながら、優はそう言った。傍を通りかかった弘子が優の先ほどの言葉を聞き取ったらしく、「臭いね」と僕の目を見て同意を求めるように言った。臭いね、というのはむろん酒の匂いではなく、優の「人を愛する資格がない」という言葉だった。ドラマや安い小説で使い古された「愛する資格」。僕だって、そんな資格があるとは言えない。僕が人に与えられるものは愛ではなく、ただの優しさだ。でも、そんなことを言ったら、誰だって人を愛する資格など持っていないだろう。誰の許可もなく、人を好きになって傷つけていくのが人間なのだと、それが愚かであろうとも、本能として植え付けられたものなのだと、僕も弘子も――優だって、きっと――知っていた。
 それから優は、泣いた。静かに、僕の肩に顔を預けて泣いていた。弘子も僕も、優が泣く理由がよくわからなかった。サークルの誰かが僕らのことを冷やかし、誰かは優の肩を叩いて「男だろ? 何泣いてんだよ……」と呆れた声を発したが、誰にも優の心が理解できていなかった。結局、優は酒を飲むと泣くキャラに変わるヤツだということで、みんなは納得した。

 その日、帰りのバスの中で、僕は優の手のひらを握った。
 温もりと湿り気を帯びたその手のひらは、16歳のときに初めて触った彼女の手のひらと似ていた。身体に熱が走り、心に波が立った。16歳のときに初めてつきあった彼女は、僕から振った。僕はただ、女の子が照れたり恥ずかしそうにしたりする反応を楽しんでいるだけで良かった。でも、つき合うとなると彼女は、僕の交友関係から勉強する時間帯や読んでいる本まで、いちいち把握し干渉しないとすまなくなった。それは愛じゃなかった。彼女も、むろん僕も。つき合うことに疲れたから振って、だけどそれまで彼女の柔らかな肌の表面に触れた感覚だけが、手のひらにずっと残って、それを忘れられずにいた。
 でも、すぐ傍には、同じ感覚があった。
 
 ――なんで、あのとき俺の手を触ったの?
 そのあと優に呼び出され、真剣な眼差しで問いかけられた。
 ――なんでって……。
 優の眼差しに捉えられているだけで、巡っていく身体の熱の感覚が呼び戻される。手のひらだけではなく、優のシャツの向こうを触ってみたいというどうしようもない衝動が走る。
 ――あのとき、そうしたかったから。
 好きだとか愛しているとか、そういう純粋な気持ちよりも、先に欲望が立ったから。ちゃんとした理由を求める優に、そんなことはとうてい言えない。優は僕の返答に軽く鼻で笑った。
 ――じゃあ、今はどうしたいと思っている?
 問いかけながら、優は僕の顔に自分の顔を近づけた。これは、誘惑なんだろう、お前の罠なんだろう、そうわかっていながら、僕は優がゆっくりと被せてくる唇を受け止め、身体が甘い熱に支配されていく感覚を味わっていた。

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