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怪物 ~視点により異なる事実~


今回は、「怪物」を取り上げます。本ブログ執筆の前日に観てきたばかりの映画で、脚本が優れているとの前評判通り、よく練られた現代的なストーリーでした。カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で脚本賞を受賞したことにも納得で、子役が生き生きと重要な役割を果たす、「万引き家族」「ベイビー・ブローカー」の系譜を継ぐ是枝監督らしい作品です。
 
「怪物」は黒沢明の「羅生門」構造の映画で、ひとつの事実を異なる登場人物の視点で描き、それぞれまったく食い違う様を観衆に突きつけます。
 
「羅生門」は、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、米国アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞し、日本映画の質の高さを、世界に知らしめた作品です。
 
平安時代を舞台にした「羅生門」とは異なり、現代の小学校を舞台にしており、現代ならではのテーマがいくつも複層的に絡み合っていて、鑑賞後に考えさせられる作品に仕上がっています。

あらすじ
自宅のベランダから雑居ビルの火事を眺める麦野沙織(安藤サクラ)に小学5年生の息子、湊が「豚の脳を移植した人間は、人間か豚か」と問いる。さらに、湊のスニーカーが片方なくなり、水筒から泥が出てきて、沙織は学校で異変が起きていると心配する。
 
そして、帰りが遅くなった湊を見つけ沙織が運転する車で帰宅の途中、湊が突然車のドアを開け外に飛び出す。幸い軽い怪我で済むがが、何があったか問い詰める沙織に、湊は学校で担任教師に虐待を受けていると訴える。
 

怪物とはいえないほどの小さな・・・・・・
今回は、映画館で上映中でもあり、映画を観て考えて欲しいので、ネタバレするほど詳しくあらすじを書くことはしません。
 
ただ、ある程度予測できるかもしれないのですが、ほぼすべての登場人物は悪人ではありません。湊の同級生で、最も重要な登場人物のひとり星川依里(ほしかわ より)の父親を中村獅童が演じていますが、ホントに悪人だと思える人はこの人くらいです。この人でさえ、古い観念に縛られて自分を制御できないかわいそうな人ともいえます。
 
ですが、多くの登場人物が、とても怪物とはいえない小さな嘘をつき、いじめをおこない、保身のための行動をとり、それらが積み重なって大きな問題に発展していきます。言いたいことを正確に表現できない(または大人からそう思われている)小学生を主人公に据えることによって、「自分もこんなこと言っちゃってたよな、しちゃってたよな」と思える程度の言動を思い出します。
 
映画の公式ホームページでは、「怪物だーれだ」というキャッチコピーが掲載されています。映画で表現されている小さなできごとが、自分の周りにも起こっていないか、そのときの怪物は自分ではないか、と考えてみることも、映画の鑑賞の仕方ではあると思います。
 
ビジネス視点で観る「怪物」
ひとつの事実を、異なる立場で眺めると、まったく違う解釈がされる。
映画のストーリーだけではなく、同じようなことは私たちの日常に転がっています。
当然、ビジネスの現場でも頻繁に起こっています。
 
誰かと会話するときに、事前にもっている情報が食い違っている。事実に対して、〈私は正しい。あたは間違っている〉との前提に立って、〈あなたは、こんな意図で話しているに違いない。なんてヒドイ!私のことをまったく理解しようとしない〉と両者が感じる。そして、相手を責めずにはおられなくなる。
 
誰かがバカな真似をしでかしたとして、やるべきことは、①なぜその問題が起こると予測できなかったのか振り返り、②おなじことが2度と起こらないために何をすればよいか考える、ことです。しかし、その前に、自分自身の思考を感情が支配し、建設的な会話ができなくなってしまいます。だれもが、自分は十分な情報をもっていて、意見の相違(=意見が異なるだけに留まらず、あいつは身勝手だ、世間知らずだ、道理が通じない、などと判断していまいます。

自分自身の組織マネジメントの経験を振り返ると、役職が異なるとそういった解釈の齟齬が生じやすかったことを思い出します。
例を挙げてみましょう。
プロジェクトのメンバは毎日残業で疲弊していて、残業代は支払っているのに、経営陣はコストを抑えるためにメンバを追加しない、といった噂がまことしやかに流れます。実際は、メンバを増やすと、新しいメンバにプロジェクトの背景や作業ルールを説明するコアメンバの負荷が一層高くなり、ますますプロジェクトは泥濘にはまっていきます。

唯一の、しかも効果的であり、そしてやってみると案外簡単にできる解決策は、“意図を尋ねること”です。「私は○○について××と決まったことは、△△という考えにもとづいて意思決定されたように感じるのですが・・・・・・」と尋ねてみると、まったく違う風景を見ている役職者にとってはそれは思いも寄らなかった考え方であり、説明すれば理解し合える、ということは少なくありません。役職や職種、性別、国籍など、認識のズレを生じさせる要因はいろいろなところに転がっています。相手の意図を確認することで、スッキリできるなら、やらない手はないように思いますが、どうでしょう?そうはいっても、簡単には聞けないという場合は少ないと思いますが、せめて、なぜ率直に聞けないのか、率直に聞ける状況をつくるにはどうすればよいのか考えてみることが、健全な働き方の第一歩かもしれません。

映画のなかでは、麦野湊と星川依里が「かいぶつだーれだ」ゲームに興じるシーンがあります。浸りが向かい合って座り、互いに、自分の額のところに動物などかいぶつの絵を貼りつけます。相手の絵は見られるのですが、自分が額につけている絵は見えません。そして、相手に自分の絵について質問を重ねていき、自分の怪物が何か当てるゲームです。こんなゲームのような行為でわかり合えるはずなのに、何もせず相手を誤解してしまい、溝が深まっていく。映画のなかで、ココがそうだと思えるシーンがいくつも出てきますのでチェックしてみてください。

「怪物」の脚本を担当した坂元裕二さんは、着想について以下の通り語っています。
「車を運転中、赤信号で待っていました。前にトラックが止まっていて、青になったんですが、そのトラックがなかなか動き出さない。よそ見をしているのかなと思って、クラクションを鳴らしたけど、それでもトラックが動かなかった。ようやく動き出した後に、横断歩道に車いすの方がいて、トラックはその車いすの方が渡りきるのを待っていたんですが、トラックの後ろにいた私には見えなかった。それ以来自分がクラクションを鳴らしてしまったことを後悔し続けていて、世の中には普段生活していて、見えないことがある」
 
観客の視点で振り返る「怪物」
この映画は、第4の視点として、観客に何を見たか(映像から何を読み取ったか)問いかけるつくりになっています。映画を鑑賞したあと、「結局○○は××したんだろうか?」という疑問がいくつか沸き起こると思います。
そして結局誰が怪物だったのか考えてみる。私たちは、被害者としての立場に立つと、被害を被ったことをよく覚えていますが、加害についてはほとんど何も覚えていないことを、映画を通じて再確認すべきなのでは・・・・・・。そう考えると、エンターテイメントとして楽しめますが、結構重い作品でもあります。
 
音楽は坂本龍一
エンドクレジットの最後の方で、「坂本龍一さんのご冥福をお祈りします」とのメッセージが映し出され、「そうだ、音楽は坂本龍一だったんだと!そのつもりでしっかり聴いておけばよかった」と思いましたが、あとの祭りです。エンドクレジットを彩るピアノ曲はとても繊細で美しいメロディと音色です。音楽を意識せず、映画を楽しむなかで音楽が生きている、と思うのですが、やはり坂本龍一最後の作品なので、そう思いながら聴きたかったです。
 
参考文献
「話す技術・聞く技術」ダグラス・ストーン他 日本経済新聞社
https://gaga.ne.jp/kaibutsu-movie/
https://forbesjapan.com/articles/detail/63569
https://news.yahoo.co.jp/articles/9c6855eaef58e3c196fe91a7e1305d8d7faa36a7
 

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