ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』を読み解く その1
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒すために」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。
さて、今回は、ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』を読み解きます。
この本、有名な本ではあるのですが、なかなか分厚くて、割と積読になりがちだと思っている一冊ですが、ある疑問への答えが載ってそうで、そういう観点から読んでみたいと思っています。
その疑問とは、「対話が大事っていうけど、本当に対話が意味のあるものになる前提が共有されていないとダメなんじゃない?」というものです。
なぜ、対話するのか?
なぜ、対話が実りあるものになるのか?
無意識的にこの前提が共有されているメンバーでは、対話が実りあるものなのに、そうではないメンバーでは対話が成立しないか、実りあるものにはならない。
そういうことを最近、感じたからです。
ということで、期待を込めて、読み進めてみます。
プロローグ ─ 私たちの進むべき道 ─
前書き部分です。冒頭部分、「今、世界中で、さまざまな学問の壁を越えた刺激的な対話が始まっています。それがいったいどのようなものなのかを、是非、読者のみなさんに伝えたいというのが私の願いです。」とあります。今、と言っても、この本が書かれたのが1999年ですから、まさに20世紀末の話です。
続いて、こうあります。「その対話は、私たちが「これは事実である(the real)」「これは善い(the good)」と考えているすべてのものの基盤を根底から揺さぶるだけではなく、クリエイティブな考えや行為を生み出すまたとない機会を提供するものだからです。」
さて、ここでこの本の言わんとしているところがなんとなくわかってきました。つまり、さまざまな「学問の壁」の中には、「これは事実である」「これは尊い」がたくさんあるわけですが、その「壁を越え」たときに、それはあくまでも相対的なものであることがわかってしまった、ということを行っています。そこで、その「基盤が底から揺さぶられる」ことで、「クリエイティブな考えや行為」が生まれてくる機会となった、というロジックです。
この前書きの後半は、筆者の迷いが表現されています。つまり、だからといって、この本の主張が受け入れられるかわからないし、拒絶されるかもしれない。そしてこの本自体が何らかの正しさをおしつけるものであってはいけない。それは趣旨から反するわけです。そこで、このプロローグの最後はこのような文章で締めくくられます。
【第1章】伝統的人間観の行きづまり
第1章の冒頭では、対立について語られています。印象的な一文を抜き出してみましょう。
この表記の後、フランスの哲学者 ジャンーフランソワ・リオタールの言葉、「十九世紀および二十世紀は、われわれに極限に近い恐怖を与えた。我々は、全一の経験というノスタルジーに対し、すでに十分な対価を払ってきた」を引用しています。
リオタールの思想については、下記の動画がわかりやすかったのでシェアしておきます。リオタールが想定している「全一の経験というノスタルジー」というのはおそらくヘーゲルからマルクス主義のことを言っているのだと思いますが、動画の中のキャラが言っているように、ナチス・ドイツのあの方の顔もちらつきます。19世紀の帝国主義時代に植民地になったアルジェリアの独立運動に賛同していたところも、行動と思想の一貫性が見られて、尊敬できる哲学者の方だなぁ、と思いました。
さて、話を戻しましょう。この本の第1章では、「本書について」ということで、この書籍の内容が示されています。下記にまとめてみます。
第1章 危機に直面している伝統に焦点をあて、その理由を理解します
第2章 崩れ去った伝統の瓦礫の山を掘り「知識」「真理」「自己」に対して別の見方ができるようになります
第3章 「真理」「自己」「善」の常識について再考します
第4章 社会構成主義の立場から社会生活を探求する方法について考えていきます
第5章 個人主義的な「自己」という概念を「関係性」という概念で置き換えることを主張します
第6章~第8章 社会の現状と、新たな未来への可能性について考察します
最終章 社会構成主義に対する主な批判である「真理」「客観性」「科学」「道徳的相対主義」「政治に対する積極的な関与」などの問題を取り上げます
これを見ても、なんのことかよくわかりません。特にたびたび出てくる「真理」という言葉は、我々はいまいちピンと来ないかと思います。それはわれわれが既に社会構成主義的な価値観をどこかでインストールして生きてしまっているから、なのかもしれません。このあたりは読み進めながら確認していくこととします。
さて、第1章では危機の状況が明らかになる、と書いています。映画で言えば、冒頭に何らかの事件が起こるタイプの展開ですね。では、どんな危機なんでしょうか?
ちょっと衝撃的な記述を紹介するところから紐解いていきましょう。
自由と平等。自分の意見を持つ。多くの知識を得て正しい判断を行う。確かに「常識」です。この「常識」を疑うことから始めてみる、と言っているのです。続きも引用してみます。
日本でもアクティブ・ラーニングや、対話型授業などが小学校などでも取り入れられていますが、それが形式だけに留まり、先生への忖度的な態度や発言を引き出しているだけになっている、という批判を聴くことがあります。しかし、これは、学校というシステムの中で、そこが啓蒙の構造になっていることを考えれば当たり前で、それは個人主義を強制されているだけなのではないか、という問いかけです。なかなか、これはインパクトのある話です。
さらにこの問いかけは、3つの問題について問いかけます。
・二元論的世界の問題
心的世界と物的世界の因果関係をどう説明すればよいのか?
・世界についての個人の知識の問題
主観としての私たちが、どのようにして
客観的世界の知識を獲得するのか?
・自分の心を正しく知るという問題
思ったり感じたりしていることがわかるとは、
正確にいえばどういうことなのでしょうか?
そして問題なのは、これらについて、答えられない、ということを認めざるを得ない、ということです。これが、ガーゲンが言っている「危機」の正体でした。
この後、ガーゲンはいくつかのキーワードを掲げて、問題提起をした後、その話を学問世界の危機の話をして、この章を終えています。
問題提起のキーワードは「客観性、真理、科学の問い」「理性と教育の役割」「道徳と責任」「ポストモダンの胎動」「文化帝国主義」「知識と新たな全体主義」「共同体の衰退」「打算的な関係」「自然の乱開発」となっており、学問世界の危機については「第一の事件 ─ 言葉は、現実をありのままに写しとるものではない」「第二の事件 ─ 価値中立的な言明など存在しない」「第三の事件 ─ 記号論から脱構築へ」として提示されています。
中でも、「文化帝国主義」のところに、ある日本の大学教授の嘆きが書かれていて、興味深かったので引用しておきます。
誰かにとっての正しさの押し付けは、誰かの不幸になります。皮肉なことに、日本の集団主義は楽しい対話を職場にもたらしていたのを「遅れている」からと個人主義にしてしまったのは、もちろん、占領軍の指示だったので仕方がないことかもしれませんが、しかし、それから独立した後も、もとに戻すことができなかったのです。このように、啓蒙に基づく暴力というのは若干、洗脳にも似て、元に戻すことができなくなって伝統が失われてしまう、という問題点があるようです。
しかも、その正しさ、には正当性などない、というのは我々が既に知っていることです。
一章の最後の部分では、このような文章が書かれています。
そして、社会構成主義はこのような状況に新しい未来をもたらす、と言っています。
次章ではいよいよ、社会構成主義とは何か、が語られ始めるのですが、少し長くなりましたので、記事を分けることとします。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。
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