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映画感想 : 「ピアノ・レッスン」

生に向かう醜さと死に向かう華麗さの対比が美しい映画

美しい映画だった。
エイダの容姿、ピアノの音色、砂浜、エイダの指と指づかい、沈み行く中でも決然としたエイダの顔、沈黙を貫くエイダの身振りや表情は綺麗であり、
男たちや現地民の容姿、ピアノそれ自体の外観、泥道、切断されたエイダの指から雨の中ほと走る血と指の欠けた右手、やはり生きようと海中で改めて決意し水上に浮上しようと潜ろうとするエイダの表情、最後に発話の練習をするエイダの声にならないような声は醜かった。
綺麗なものは「死」に向かう意志を帯びており、醜いものは「生」に向かう意志を帯びていた。
綺麗なものも醜いものも、そのどちらも美しかった。

高みに登った人類の営みを、中腹の凡夫はただ見届けることしかできない

ピアノを返すことを条件に性的な接触を迫るベインズはねっとりしていて気持ち悪く、その後エイダがベインズを愛する気持ちが初めは意味がわからなかった。
最後まで見終わって振り返ると、これはスチュアートがエイダから頭に直接語りかけられたという「生きる意志」が、ベインズの(詳しくは明かされていないが)過去の悲劇や、そこから生まれたベインズ自身の生きる強い意志と共鳴したのではないだろうか。
そしてその触媒となったのがこの物語のキーとなる「ピアノ」であった。そのピアノからは映画を通して、儚げ、悲しげな曲が演奏されていた。

その強烈な引力は例え斧で指を断ち切ろうとも止めることはできず、
現代に言う地上げ屋に過ぎないスチュアートは、
人為ではどうすることもできない自然の流れとして諦め、エイダとベインズに2人で行かせる。
高みに登った人間を、そこに至っていない他の人間はただ見届けるしかないのだ。
これまでの人生でも何度か味わったことのある、自分より高みにいる人間の邪魔はせず、歯を食いしばりながらただみて居るしかない悔しい経験を思い出した。

蓋をされ増幅した感情は、芸術を通じ流れ出ることでさらに洗練される?

エイダは夫に先立たれたことが原因で口をきかなくなったとのことだったが、
だからこそ生の意志が外に出る機会を奪われ、内部で増幅した結果としての、
彼女のエネルギーになったのではないだろうか。
自分自身や周りを見ていても、口をきけないまでは行かずとも、自分を表現する事を抑圧され一種の強さを帯びる例には心当たりがある。
ただ、感情や思考を外部にスムーズに表出できないからといって皆が皆エイダのような力強さを帯びているわけではない。
その条件はどのようなものなのだろうか。
エイダにとってのピアノのような、間接的に感情や思考を表現できる手段を持っていることだろうか。


この映画を通じて、「いい映画」とはこういう映画のことを言うのか、と腑におちた。
現実を美化せず、現実の悲劇の本質を2時間の映画の枠の中に復元する。
みた後の感覚も、「よし、明日も頑張ろう」みたいなものにはならない。
ただ、現実世界をありようを思い出す。
深く、重く、美しい映画だった。

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