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神様、もう少しだけ。

いわゆる”見える”ひとに、「あなたは本来"見える"はずだ。年齢が若ければ(←せつない)、巫女になるべきだったほどの体質だ」と言われたことがあります。

あ、今回美容医療の話は1mmも出てきません。
先日訃報を聞いた日に徒然と綴り始めたものなので、そのうち私には大きすぎるテーマをハンドリングできてない感じになっていきますがあしからず。

さて冒頭の話の続きになりますが、
私は神秘的なものに惹かれるというか、縁とか運命とか奇跡などロマンティックな類の話が好きなので、目に見えないものを”見える”ようにはむしろなりたいのですが

それでいて、仕事に関してはずっと外資系ということもあり、実力成果主義、合理主義で効率を重視し、何かあっても「裁判で負けない」やり方を心掛け、無能な人がクビになっても、人件費の無駄が減って良かったと思う人間でもあります。
(ここだけ書くと超冷酷人間ですけど、相手を慮り、尊重し、気遣いや心配りを心掛け、助け合うことにも労を惜しみませんよ)

現実的・本質的に物事を捉えようという側面が大きいばかりに、前述の目に見えないものたちは幻想だぞと、"見える"能力を閉じ込めているのかもしれません。要は見えません。仮に幽霊やオーラの色みたいなものが見えたところで自分を信じられる気がしないし、説得力をもって人に伝えることなんて到底できないと思います。クリアに見えて/感じて確信できて、それを言語化できるのがユタとか霊能者とかそういう人たちなのかな?

でも、「自死」を本気で考えている、または考えたことのある人間は、わかるんです。視覚的なもののような気もしつつ、直感以外の表現ができなくて、本当に難しいんですけど。

死期の近い人がわかるわけじゃないから(さすがに末期癌で余命が短い方とお会いした時は察しましたが)、予言ができるわけではないです。
突然の訃報に驚くことはあるのですけど、それが自死による訃報の場合、実は比較的驚かないというか。えっ!ああ…うん。みたいな。

ある時、この人ちょっと危ないなと思ったことがあって、私なんかがお節介だろうなとは思いつつ、邪魔だと突き放されない限りは側にいようと、時間の許す限りは勝手に付きまとってwたんです。

そしてそのうちその変なゾーンみたいなのは脱したかな、と感じて距離感を元に戻すわけなのですが、後日、「…実はあの時期、死んでもいいかなと思ってたんだよね」ってカミングアウトされたんです。
(それに対してはヘラヘラと「うん、知ってた~」と返してしまったのですが、なんか、こう…もっと気の利いた返答なかったのでしょうかね…がっくし!)

人に対して懸命になってると、「ただの甘えで、死なねーから」と突き放す人がいます。私のためを思ってね。いいんです、甘える図々しさがあって、それで死なないなら。

「包帯クラブ」という映画(原作:天童荒太)で、「人は、ある日、そこの曲がり角を曲がるように、死ぬ」といったようなナレーションがあるんですけど、私は本当にその通りだと思っていて。皮肉にも、人の身体というのは、その気になりさえすれば、蛇口をひねるように簡単に死ねるようにできているんですもの。

人は追い詰められた先で、死ねばその絶望から逃れられるという、死が救いであるかのような選択肢が、実は自分の掌の中にあることを知ってしまうんです。しかも物理的にはそこそこ簡単に叶えられてしまう。
だから、甘えられなくなったら、本当の意味で孤独を感じてしまったら…視線が自分自身の小さな掌にしか向かなくなってしまった時が本当に危ないと。だから先回りできるなら、私は先回りしたいと思っています。

「人生」というと壮大な響きですが、「人の生」は、長生きしたってたかだか100年ぽっちです。中にはプーチン大統領みたいにこの人永遠に生きるんじゃ…?!みたいに思わせる人もいますけどw
さらに病にもかかるし、健康であっても、成熟したら、ほっといても肉体は衰えていきます。所詮そんなものだからこそ、自分の生も他人の生も、優しく優しく扱いたいものです。

無理してまで世間に迎合しなくていいし、世界に貢献しなくていいし、律儀にストイックな努力をし続ける義務なんてない。逃げたい時、一時避難も大事。時には立場や責任は一旦置いておいて、ただダラダラと人に甘えるだけの時間があってもいい。でも持ちつ持たれつ、たまには私や誰かが甘えることも赦してね。余生を消化するようなゆるさでもいいから、夢とか無くてもいいから、生きていられるうちは生き抜いてほしいな。とだけ思うのです。
そしてどのタイミングでも構わないけれど、こんなにも脆い命を何年も守り続けてきた自分を誇りに思って、讃えてほしいと思います。

19だったか20の頃だったか、超絶大御所のカメラマンさんと何故か2人でじっくりお話しする機会があって(若いってすごい、怖いものなしだったんだなあ)、「心が救われるなら、何を信仰してもいいよね、宗教でも、アイドルでも、極論怪しい壺でも。ただ、その思いを利益のために利用したり、その違いによって争いを起こすのは違うよね」という話で共鳴したんです。(当時はアルカイダとかが未だのさばってて、少なからず宗教が関係する紛争が続いていたんです確か)

これはもう彼にしか分かりませんが、せめて救われた気持ちでいられた最期であったことを、勝手ながら祈ります。さらに勝手を言わせてもらえば、命がある状態で、自分の掌ではないところに眼差しを向けて、あともう少しだけでも生き続けられるくらいの救いを見つけてほしかったけれど。

ただただ、どこまでも美しい人でしたね。あまりの美しさに、神様にとられちゃったのかな。どうか、どうか安らかに。