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1930年代のベルリンーーケストナー評伝と『ベルリン1933』

【読んだ本】
◆クラウス・コルドン、ガンツェンミュラー文子訳『エーリッヒ・ケストナー:こわれた時代』(2022、偕成社)
◆クラウス・コルドン、酒寄進一訳『ベルリン1933:壁を背にして 上』(2020、岩波書店)
◆クラウス・コルドン、酒寄進一訳『ベルリン1933:壁を背にして 下』(2020、岩波書店)
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20世紀ドイツの歴史を表現するケストナーの評伝
 『エーリッヒ・ケストナー こわれた時代』はすごい本だった。エーリッヒ・ケストナー(1899–1974)には『飛ぶ教室』や『エーミールと探偵たち』を書いた20世紀を代表する児童文学作家というイメージが定着しているし、本書は1995年ドイツ児童文学賞に顕彰されているが、「児童文学」枠で整理されてしまうのはあまりにもったいない。たとえば、中高の歴史教育に取り組む先生がたの参考文献、大学や大学院のゼミでの輪読など、ヨーロッパの近現代史を教える人、学ぶ人、そして近現代史一般に興味ある人が読みこめば、リターンの大きな内容になっていると思う。20世紀のドイツが経た激動、喪失したもの、深くえぐられた傷跡からの再生などが、作家の評伝形式で描かれているのだ。
 ケストナーは最初から児童文学作家だったわけではない。第二次世界大戦まえの20代からジャーナリストで、一般向けの小説、詩、脚本を手がける売れっ子作家だった。1933年5月10日、彼は第三帝国の宣伝大臣ゲッベルスが計画した焚書をベルリンのオペラ座広場で目撃する。燃えあがる24人の作品――22人の作家がすでに国外退去したなかただひとり、理性を欠く暴虐を目に焼きつけた(p.172–173)。1944年2月15日の深更から16日未明にかけ、住まいは空爆を受ける。4,000冊の蔵書、原稿2本、タイプライター、家具や身の回り品の一切合切が灰燼に帰した(p.224)。1945年11月22日、彼はニュルンベルクの国際軍事裁判を傍聴する。戦争犯罪の責任者とされたナチス・ドイツの幹部らが被告人席には居並んだ(p.275)。ケストナーはのちにある俳優から、1948年のチロル撮影での出来事を聞く。ナチス親衛隊の制服を衣装として身につけた村人8人のエキストラが、休憩時にバスを止めた。「おれさまたちは、またきたぞ!」と威嚇した悪ふざけを知った映画監督は謝罪したが、ショックのひどかった乗客の証言で、エキストラたちが本物の親衛隊員だった過去を知る(p.308–309)。誰をどう裁くことが妥当なのか、戦争犯罪や戦争責任のとらえかたを問われる逸話である。
 こうした体験を読み進めていくと、幾度も国外待避の機会がありながら、あえてドイツに踏みとどまった知識人が、祖国の負の歴史をくぐりぬける選択をみずからに課したという推察が可能になる。「地震や洪水、火山爆発などは、さけがたい運命として受けとめるしかない。だが、人間は自ら破壊的にふるまう。その最も暴力的なあらわれが戦争だ」(p.311)という種類の論述は、国外からの観察では生まれてこなかったのではないか。復興に「れんがやセメント、木綿の輸入、種じゃがいも、合板、くぎ、春野菜、所得税の割り増し」のみならず「品性も大事」(p.281)とした見解も同様である。
 戦争体験以外にも母親や女性たちとの関係、教員志望だった経歴に根ざす教育観など、興味深い記述がある。一人の大きな作家の自己形成と思想のかかわりを複数の視角から考えられる。出版物としての価値という意味では、本文への脚注、あとがきでの著者クラウス・コルドンの紹介、ケストナー略年譜・著作リストなど、読書の理解を深める訳者の丁寧な作業がありがたいものだった。こうした配慮は、作家の評伝で20世紀ドイツの歴史を形にしようとしたコルドンの営みをより手ごたえのあるものにしている。

15歳で労働デビューした少年の自己形成小説
 『エーリッヒ・ケストナー こわれた時代』でクラウス・コルドンという作家の歴史構築力を見せつけられたあと、評判の高さは知っていて以前から読みたいと思っていた〈ベルリン3部作〉に着手する。同シリーズは1919年・1933年・1945年が各1巻の単行本で理論社から出版されたあと、それぞれ上下巻に分かれた岩波少年文庫に所収された。児童文学として「定番」化されたことになる。
 まず「1933年」から入っていくことにした。邦訳出版のスタートだったことと、ケストナーの評伝との関連性の深さが動機である。私は児童文化による戦争協力という研究に取り組んでいることもあり、1930年代という戦争へ向かう時代の記述には吸い寄せられる。小説であるから歴史研究の直接の参考文献にはならない。だが、この時代の空気感が、児童文化史研究をとおしてうかがえる同時代の日本の空気感と比較してどうかという疑似体験の対象として大切なものと思える。歴史上のできごとや、そこに生きた人びとの感情に分け入って考えようとするとき、史料を読解する力に加え、空想力とは異なる歴史的想像力は必須である。コルドンという作家の小説には、その力をきたえてくれるものがあるという期待があった。はたして圧倒的、衝撃的な小説だった。
 『ベルリン1933 壁を背にして』上下巻は、15歳のハンス少年の就職初日からはじまる自己形成小説である。ドイツ語でビルトゥングスロマンと訳される教養小説の系譜に位置づけられると思われる。ゲーテの『ヴィルヘルム・マスターの修業時代』、トーマス・マン『魔の山』、ヘルマン・ヘッセ『デミアン』などに連なる作品群の一角ということになる。
 ハンスの勤め先はAEGというドイツの巨大電機メーカーである。労働者たちのルーティーンが描写されながら、あれよあれよの成り行きでナチ党が権力を掌握し、反目する二大労働者政党――ドイツ社会民主党とドイツ共産党が瓦解していくさまが、各党に属す同僚たちの動向でたどられていく。政治的な分断は、4人きょうだいだったハンスの家庭、失業者や栄養失調があふれる安アパート住まいの隣人たちに数々の不幸をもたらす。ハンス自身はどこの党員でもない。しかし、職場でも家庭でも政治的な主義主張を聞き、ナチ突撃隊に目をつけられて幾度も暴行を受け、家族や知人に政治活動の補助をあてにされながら、次第に自分なりの信念と発想で動く青年になっていく。
 こう書いてくると、何とも硬派で政治色の濃い、とっつきにくい内容と取られそうだが、ハンスには恋の体験や将来へ向けたささやかな希望、気晴らしがあり、家族には新しい命の誕生があり、幼い弟ムルケルの言動はほほえましい。不穏な雲がたれこめていくような社会のなかで、必死に生きようとする人びとの鼓動が伝わってくるエピソードに、小説を読むカタルシスが感じられる。
 「はっきりいえることはひとつだけ。大局で平和になるのがむりなら、一部でも平和になってほしいってことよ」という母親に、「大局で平和になれないかきり、どこにも平和はない。あるのは願望だけだよ」と反論する父親(上巻、p.261)、「政治は真実とか誠実さとか礼儀とはあまり関係がない。ナチ党はそのことをわかっていて、他人の無知蒙昧を恥ずかしげもなく利用しているんだ。そうやって権力をにぎったのさ」(下巻、p.121)――これもまた父の語り。ときどき作家の思いが吐露されるかのように登場者たちが口にすることばには、大切なことを表現し、狂いかけた世のなかに流されず、理性を目覚めさせておくことの必要性がこめられている。そう考えたとき、歴史的想像力はなにも研究者や歴史好きだけに蓄積されていくものではなく、あらゆる社会に生きる人にとって身につけておきたい技術だと思えてくる。
 


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