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シリーズ「コロナ禍と認知」その5 「風の谷のナウシカ」と「制御欲求」と「自然」後編:不安の正体 ――「制御欲求」と「自然」との関係を中心に――

 今回のコロナ禍において特に都市社会が必死になってやっている様々な対応(今回のポピドンヨードなどはまさにそんな感じですが)をみていて感じることは、人為と技術は自然を完全に制御することが可能なのだという前提、そして、制御の本質は還元にあるのだ、という前提を、多くの為政者の方々が共有しているのだろうなということです。この「制御の本質は還元(という幻想が都市社会を支えている)」という仮説は私の中ではここ数年の大きなテーマとなっているのですが、ここ数カ月のニュースを見つめながらその思いを再確認しています。そして、まさにナウシカの物語はこの仮説を考える上の素材としてジャストです。アニメーション好きの方はご存知と思いますが「PSYCHO-PASS」などの秀逸なSFアニメーションも必ずこの周辺テーマを掘り下げています。

 人為によって開発された技術はこの2000年の歴史を推進してきました。そして、推進力を支えていた信念が「人為は自然を制御できる」というものだったのだと私は考えています。では、その本質が「還元」であるということは矛盾していないでしょうか?なぜなら「還元」とは「もとにある位置に戻すこと」だからです。すなわち「止まっていること」「変化しないこと」が「還元」の本質的な意味だといえます。そして、人為技術の本質が制御であり、制御の本質が還元であるとしたら、人為技術は世の中の発展には役立たないはずです。ところが現実には全く逆で、人為技術によってたくさんの革命的な発展と進化がありました。これは矛盾していないだろうか?という問いです。

 私は矛盾していないと思います。二つあります。ひとつは、それが人為によってゴールが設定され、計画されたうえでの変化なのであれば、その変化はアルゴリズムに組み込まれた「予定(by ナウシカ)」であり、予定に基づいて実現された変化は還元主義の中にあるということです。もう一つは、人為技術によってもたらされる発展は、しばしば意図せず自然の力を借りている、ということです。ペニシリンの発見などはその分かりやすい例かもしれません。

ナウシカの物語では、「火」は「人為技術」のアナロジーとして使用されています。「森の人」は「火を拒否した人」として描かれ、腐海を人為の届かない自然のエコロジーとして位置づけ、そのエコロジーの一部、すなわち自然の一部(人為と独立したものの一部)として暮らそうとしているものの象徴です。わかりやすく言うと「ロハスな人」ですね。しかし、その森の人も腐海も王蟲も実はその昔人間が作り出したものでした。そして、その変異体とともにあるエコロジーとして、人間も変異していたということをナウシカから知らされます。ここで提示される問いは「自然 VS 人為技術」という対立軸で世界を見つめていても世界をうまく説明できないのではないか、という問いです。

 ここで登場する仮説は、人為技術が入っているかいないかが「自然なもの」と「自然でないもの」を分かつ基準ではないかもしれない、ということです。「新型コロナウィルスは実はどこかの国が開発した生物兵器なのではないか?」という憶測が世間を騒がせた時期がありましたが、新型コロナウィルスがこの世に生まれるまでに、どんな生まれたかをしたかということは、それが自然のエコシステムの中にあるものなのか、それともそうではないのかの基準にはならない、という考え方がここで生まれます。生み出されたものそのものを見つめればよいのだ、ということです。

では、「自然」とは何か?おそらくそれは「人の制御の届かないところで変容し続けるもの」なのでしょう。人が作る予定に落とし込むことができないもの、それを「自然」とするなら、いろいろなことに合点がいくようになっていきます。たとえば、シンギュラリティを迎えた人工知能はおそらく「自然」であるといえるでしょう。おそらく、今現在の人工知能の一部にも自然は宿っているはずです。さらに、だとすれば、人工知能を常に人間の制御下に置く環境を保持するという発想自体に矛盾が生じてくるかもしれません。将来人はロボットに殺されることがあるでしょう。そして、それはロボットが自然のエコロジーの仲間として受け入れられた証左となるかもしれないです

ナウシカの物語の中でも「自然」と対比的に語られている「人為技術」のアイコンとして「墓所」が登場します。「墓所」の意味は比較的わかりやすく、ここは「人為によって世界を制御する」という欲望のるつぼのような場所です。この「墓所」をつかさどるものに向かって、ナウシカは「生きることは、変わることだ」さらには「お前は変われない 組み込まれた予定があるだけだ 死を否定しているから」と叫びます。これらの言葉はまさに制御と還元によって安心を得ようとする人類の闇の部分に対するナウシカの宣言なのでしょう。ただ、ナウシカ自身も自覚するように、人間はその闇の部分を持っておかないと不安に飲み込まれ生きていられないのだと思います。

ここで「人が持つ不安の正体」の一部がおぼろげにわかってきました。人間は、予定の物語と自然の物語の混沌の中で生きています。しかし、自然は「予定外に変わること」が前提のエコシステムなので、人間の「還元」と「制御」を欲する面からすれば、それはリスクと捉えられるのでしょう。予定の人生を描いたはずなのに、予定外の変化が自己に訪れてしまうこと、そして、その予定外の変化に抗おうとするときに生じる摩擦熱のようなものが「不安」の正体なのかもしれません。ここについてはもう少し今後掘り下げたいと思っていますが、一般的に科学技術のアイコンとして認識されている医学が実は「人を枠の中にとどめ続けておく」ことを最上の目的とした方法論であるということは、なにかこの理屈を説明する上では象徴的なことのようにも思えます。サイエンスは、やはり私たち人類が「予定を生きること」を支える強大な土台であるとともに私たちが「生を生きること」の矛盾の根源でもあるかもしれません。コロナ禍において混乱の対象となっているいくつもの「説明出来ないこと」について、このような視座から紐解いていくのも面白いかもしれません。

 ナウシカの物語の終盤で、この物語は二つくらい難しい宿題を私に投げかけました。誰かこれらを解説してほしいのですが、その一つは「母」についてです。「母」が具体的に表現される場面は二つです。1つはナウシカが巨神兵に名前を付けるところ。ここでナウシカはオーマ(巨神兵)の「母」となり、巨神兵は自分の生まれてきた役割を明確に自覚します。もう一つの場面は、ナウシカが意図せず到達した墓所周辺に設置された場所。そこには、現在の世界が朽ち滅びた後に再生のエッセンスとして選ばれたエコシステム(その多くは、きれいな空気や土や草花や動物たち、そして音楽や美術です)が存在しており、それらを守り統治する存在として「母」が出てきます、「母」は、迷いをなくさせ、安らぎを与え、永遠にその心地の良い環境にとどまり続けるようナウシカを誘惑するのですが、ナウシカはついにその誘惑を振り切っていきます。ここで繰り広げられている世界はまさに「人為によって完璧に制御された世界」であり「変化を拒否することによってもたらされている安心」だと私は理解しました。そして、それらがかぐわすにおいをナウシカは「死のにおい」と捉えるのです。これは、前述した「生きることは 変わること」というメッセージと直結します。宮崎さんがなぜ「人為による完璧な制御」のアイコンとして「母」を登場させたのはまだ自分もよく咀嚼できていませんが、少なくとも「母」にその一面があるということなのでしょう。おそらくこれは人が「オトナになること」と深いつながりがあると私は考えています。別途どこかで考察したいと思います。

もう一つの宿題として、ナウシカは最後にとんでもない謎を提示して終わってしまいます。「自然」の象徴である王蟲と、「人為」の象徴である墓所が同じ組成で作られていたという事実をナウシカが知るというところです。これは、もう深遠な宿題だと思うのですが、おそらくこのメッセージをあいまいにとらえるならば、人間の特性には「制御」と「自然」の二つが多かれ少なかれ常に存在している。ミクロのレベルでいうなら、すべての人間個体は「制御」と「自然」をその特性として有している。その中で世界を生きるしかない、ということなのかと思います。人間は「生み出されたもの」であると同時に「生み出そうとするもの」でもあります。ここで新型コロナウィルスあるいはコロナ禍と人工知能社会とを「エコシステム」の文脈で理解していく、という宿題になるのでしょう。

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