「つらい思いをして生き続けている人たちを殺してあげる」という考え方の狂気、あるいは正当性について、自分のこととして考える
相模原でとんでもない事件が起きました。ただ、テレビのニュースのほとんどはこの事件を「頭のおかしい奴が、麻薬でラリッてとんでもない悪行を行った。これ、ちゃんと事前に取り締まれよ」という論調で描いています。ただ、この事件はそのような論調で片づけるには大きすぎる事件です。
私の認識では、大量殺人を起こした犯人は今でも「自分は正しいことを行ったのだ」という信念に揺るぎがないのだと思います。その考えは明らかに常軌を逸脱していますが、一方それを、麻薬でラリッていたのかとか、こいつやっぱり危険思想人物とかで、他にアプリケーションされることがない「特例」として扱うことには私は違和感を持っています。なぜなら、真剣に医療サービスに従事している者なら、一度は「こんなにつらい思いをして生き続けることにどんな意味があるのだろうか?」という思いを少しはもった経験があるはずだからです。今回のように明らかに猟奇的かつ極端な事例は、あくまでも特別な狂人による特別なことととしてとらえられがちです。ただ、少なくとも臨床倫理について日常的に関与している私にとっては、今回の事例を「自らの問題」として考えざるを得ない衝撃的なエピソードでした。それは、自らの中にも狂気が存在する可能性があるのではないか、という問いです。
もちろん私は今回の事件を起こした犯人を擁護するつもりは毛頭ありません。人間の尊厳を踏みにじるひどい話だと思っています。ただ、ここでの私の主張は、「これは、他人事ではないのだ。この事件は、『ケアする側』が持つ感情が極めて極端な形であらわになった事例なのだ。そして、すべての『ケアする側』の人間は、今回の事件を「当事者」としても考えるべきだと私は考えます。炎上覚悟でいうなら、この話は「胃ろうは良くない」とか、「延命治療は良くない」とかの原則をすべての「かわいそうに見える高齢者」を当てはめることの傲慢さによく似ていると私は思うのです。
私たちは、通常閉ざされた世界に住んでいます。特に、病院だとか介護施設だとかの世界においては、クライアントとサービス提供者との関係性すらも決してオープンな世界ではありません。そのような世界では、その世界における「常識」が、世界そのものの正当性を持つようになります。世紀の傑作「カッコーの巣の上で」は、そのような閉ざされた世界の中で構築された「良識」や「正しさ」がいかに狂気に溢れているのかということのついて、実に象徴的かつ明確に描き出した映画です。ある病院の中やある病棟の中、ある診療グループの中では、そのユニット特有の良識や価値観、あるいは「徳」が生まれ、時にそれらは危険なほど大きく育っていきます。多くの場合それらは危険ではないのかもしれませんが、おそらく私たちが思っているよりしばしばその「良識」は、その外の世界に住んでいる多数の人間から見た場合にカルト的に逸脱した倫理観になる可能性を帯びています。そのような内的規範を持ったカルチャーは、迷うこと、惑うことをやめていきます。最終的には自分たちと異なる価値観を持つ集団を「敵」とみなすようになります。
ニュースの詳細を知らないために憶測の中で解釈しますが、今回多くの方の命を奪った人間は、自分がやったことを「正しいことを行った」と考えているのだと思います。すなわち、「つらい思いをして苦しみながら生活している人たちを殺して”あげる”ことは、その当事者にとっても周囲の人たちにとってもためになることなのだ」という論理です。もちろんこの論理は私たちが住む世界において決して承認されない考えです。これは、「個人」という極めて極端に閉じた世界の中で育ち確立してしまった倫理観による極めて危険な「善意」なのです。そして、だからこそ「専門的」であり、「善意を後ろ盾に仕事をする立場」であり、「社会にとってリスペクトされる立場」のグループに属する人間集団(医療職がその典型です)は、自分たちの中にある善意がどこかで狂気を生み出す可能性があることに対して常に意識的である必要があると私は考えます。そして、だからこそ専門的な世界に住む人間は、他者からの批判や評価をオープンに受け入れ続ける構造を持つ必要があるのでしょう。
この文章をThe Yellow Monkey の「JAM」を聴きながら書いています。「あのえらい発明家も、凶悪な犯罪者も、みんな昔子供だってね」という言葉が刺さります。「こんな夜は、君に会いたくて、また明日を待ってる」というロビンの叫びが少しだけ理解できました。
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