見出し画像

認知症のおばあさんの「まだご飯食べてない!」という言葉と、医師の「今すぐ薬を開始しないと大変なことになります」という言葉は同じ仕組みから発せられる。

   私が人工知能に興味を持ったのは、人工知能に対する興味ではなく、人工知能という「自然知能に近づこうとする意志と方法論」を見つめることで、自然知能が持っている芳醇な魅力を対比的に知ることができるからです。この2019年の段階においては、人工知能は自然知能ができる能力よりもはるかに高い能力を部分的に持つことができることが証明されています。それは、例えば記憶のプールと抽出とか、ベイズ理論に基づいた推論とかです。一方で、現在人工知能と呼ばれているコンピューター上のしくみではとても太刀打ちできないようなことを自然知能はいとも簡単にこなしています。それは例えば「迷う」ことだったり「恋をする」ことだったり「接続詞でつながったいくつかのスクリプトを物語として理解する」ことだったりです。その意味では、現時点での人工知能は自然知能ができることのほんの一部しかできません。

 そして、そのような視座で人間を見る時、自然知能が苦手なものが結構あるということにも気づいたりします。つい先日、その一つに気づいてとても興奮したのでここに論考したいと思います。

 まさにそのセッションは人工知能学会の研究分科会の中で起こりました。その分科会のテーマは「物語を理解すること」についてでした。人工知能の先端を扱っている研究者曰く、物語理解は自然知能の最も高度な能力なのだそうです。人工知能に関するいろいろなことを勉強して、今ではそれについて「そうだよねー」と賛同しています。

 そのセッションの際に、認知症の人がたまに不合理で不思議なことを言うとき、その言葉を理解するには物語能力が必要だ、というような議論になりました。例えば、施設に入居して間もないおばあさんが夕食を食べた直後に「私だけまだご飯を食べていない!」というようなことを言い出すとき、「おばあちゃん今食べたばかりじゃない」と諭したとしてもうまくいかない。そこにどういう経緯でその人が「私はまだ夕ご飯を食べていない」という認識に至ったのかについて、物語ベースで考えていく必要がある、というような話になりました。紐解いていくと、そのおばあさんは食事における上げ膳据え膳の施設のやり方や、食事の団欒の中で自分が仲間に入れずにいることの渇望感を「私だけまだご飯を食べていない!」という言葉で表現していたのだ、ということがわかっていったのです。その理解のプロセスとして、物語理解ということが強調されていました。

 その時に、フロアからとても重要な質問が出たのです。それは以下のような質問でした。

“そのおばあさんの認識が創意工夫によってあらわになったことは理解できました。でも、なぜそのおばあさんは「私も団らんの中に入りたいのだ」「準備をして、食べて、かたずけるまでをみんなと一緒にやりたかったのだ」と直接言わなかったのか?そのような欲求を想起せず、そのかわりに「私はまだ夕ご飯を食べていない」という認識が生まれたのはなぜなのか?”

私はその時「これじゃん!!!」と興奮しました。認知症のそのおばあさんの言葉は、まさに医師が患者に対して言っている言葉と同じ構造を持っていることに気がついたのです。

私は常々「今すぐ薬を開始しないと大変なことになります」という医師の言葉は、自分の欲望 ――それは、自分が進める薬を目の前の患者に飲んでもらって、その上で『先生のおかげでよくなりました!』と言ってもらいたい欲望―― をダイレクトに伝えることができないことから出てくる言葉だと理解していました。さらに言うなら、医師の中で「自分が進める薬を目の前の患者に飲んでもらいたい!!」という欲望は意識に上がってきていないのです。ですから「私は、この薬をあなたに飲んでもらいたいんだっ!!そして、その薬の効果を実感してもらいたいんだっ!!」という欲望そのものを想起せず、その代わりに「今すぐ薬を開始しないと大変なことになります」という、より客観的な事実に翻訳しているのだ、という仮説を持っていたのです。

認知症の人の行動に関する質問を聴いたとき、その仮説がまさにその質問の答えとびしっと結びつきました。そのおばあさんが自らの欲望を意識に挙げることができず、代わりに「私はまだ夕ご飯を食べていない」という事実認識に翻訳したのは、医師が「薬飲んでほしい!!」という欲望を認識できず事実認識に翻訳したメカニズムと同様だったのです!だとしたら、そのおばあさんが「みんなの仲間になりたい」と欲望したことを「私はまだ夕ご飯を食べていない」と認識し表現したことは何の不思議もないですし、その認識を持ったことはひょっとしたらそれは「認知機能の衰え」ではないのかもしれません。

私がその時に感じたことは、「そもそもホモ・サピエンスは、自分が持つ欲望を言語として意識に挙げるのが苦手なのではないか?」ということです。そして、自分の欲望をダイレクトに想起することが苦手だからこそ、その欲望を何か客観的な事実として認識しようとするのではないか、と考えました。

この仮説はホモ・サピエンスがホモ・サピエンスである根源的な理由に触れているような気がしたのです。すなわち、創世記にアダムとエヴァが「知恵の樹の実」を食したときに得てしまった脳のしくみなのではないか、ということです。自分が持つ欲望を欲望のまま想起することは、人間としてはちょっと恥ずかしいことである、人間はほかの動物と違うのだから、「欲しい、欲しい」とダイレクトに表現するのはお下品なのだ。もっと、万人にとって受け入れられる客観性のある認識に翻訳しなければならない、という命題を、神から受け取ってしまったのかもしれません。

そう考えると、患者とか医療者とかに限らず、すべての人間は自分の持つ欲望をうまく意識の上にあげることができない回路を持ってしまっているのではないか、という仮説に私は今至っています。これってすごいかも!?

さらに言うならば、医師のような専門家は、その仕組みにさらにブーストがかかっている立場にあるかもしれません。「私、こうしたいの💛」という欲望を持ち、それを欲望の対象に向けて表現するというのはまさに「まる出し」の行為と言っていいでしょう。「まる出し」はホモ・サピエンスにとっては恥ずかしいのです。そして、専門家はさらに「専門家」という鎧をまとってクライアントに接しているわけですので、「まる出し」は一段と恥ずかしいわけです。

最近「中道態の世界」を書いた國分功一郎さんが「意志(意思)決定支援は考えを止めてしまうかもしれない。そうではなくって、欲望形成支援が大切なのではないか?」とメッセージを発しているのですが、私の今回の気づきはまさに欲望が形成されることはホモ・サピエンスにとってとても難儀なことであり、自らの欲望を意識の上に形成するにはおそらく自分一人ではとても困難なことだ、ということについて自分では腑に落ちました。その意味では、欲望形成についても「支援者 → 欲望を持つ当事者」という図式を一歩抜けて、お互いに意識化において欲望を持つ同士が邂逅し、そのインタラクションの中で自らの欲望が沸き上がってくるのかもしれません。

自分が欲望を持っていることを自分で気づくのはなかなか骨が折れることです。だからこそ、見ず知らずの他人から「お前はこんなこと言っているけど、お前はどうしたいの?どうありたいの?」という問いを常に投げかけてもらうような環境に身を置くことが大切なのかもしれません。そして、自分が何かしらの「この場をコントロールしたい」という意図とともに何かしら客観的な表現の言葉を発している時、「俺はどうしたいのか?どうありたいのか?」を自らに問う習慣をつけることによって、自分の人生はまたリッチになるかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?