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ノブレス・オブリージュの終焉とその先

 まず宣伝ですが、年末の12月26日に京都大学で面白い企画をやります。”「武士道」VS「もはヒポ」 王道でない明日の医療プロフェッショナリズム教育をかんがえる”というセッションで、武士道プロフェッショナリズムを提唱する京大の錦織さんと「もはヒポ」を提唱するオレのガチのディベートを3時間ぶっ通しで行います。是非今から手帳にメモをお願いしますね。

 まず、いきなり錦織さんを擁護するようなお話からすると、「武士道」というとかなりマッチョなイメージがあって、特に女性からは敬遠されそうな言葉ですが、基本は「ノブレス・オブリージュ」が中心にあって、付随する徳として「忠義」とか「仁」とかがあるのではないかと勝手に解釈しております。そして、ノブレス・オブリージュは今まで医療専門職の徳倫理を支える王道の概念であったとも解釈しています。その前提で、私は医療職に限らず、政治家、弁護士、教育者などいわゆる「社会的に尊敬される立場にいる人たち」の徳倫理をクラシックな意味でのノブレス・オブリージュで支えるのは難しいし、よろしくないのではないかと思っています。

 ノブレス・オブリージュとは、財産や権力、社会的地位においてより高い立場にある人間に嫁せられたモラルコードと一般的には言われています。すなわちそれは支配する側、統治する側に立つものが、統治される側に立つものに対して感じるべき利他的な態度あるいは行動を意味するものです。そして、ノブレス・オブリージュに基づく倫理規範は、そのまま医師などヘルスケアに携わる者の行動規範の根幹でもありました。医療者は、弱者や困ってる人を救済することがその使命であり、常に弱者に対して慈悲深い心を持っていなければならない。それに自分の利益よりも他者に対する献身を優先させていくことがヘルスケアに携わる者の重要な徳であると言う規範です。そして、それと引き換えのように、医療者は人々から尊敬され、社会的に高い立場を承認され、自らの持つ基本的態度の正当性を社会から保証されるという関係性を作ってきたように思います。

 私は、ノブレス・オブリージュの姿勢に対してあらゆる面で否定的なわけではありません。実際にどの時代のどこの社会においても社会的に特権的な地位を持つ人間というのは存在します。そしてそれらの人間が目先の私利私欲に走ることで、社会は混乱していきます。これは昨今の私たちの周りの生活や、毎日のようにテレビを賑わしている、いわゆる「偉い人たち」の残念な行動に関する報道を見回せば容易に実感することができます。政治家や弁護士、経済をリードしている大企業の重役に就く人々には、自分たちが私利私欲に走ることで社会全体が混乱し、その社会に属する多くの人たちに不利益をもたらすということに対して強く自覚的である必要があるということについては私も賛成です。そして、教育やヘルスケアに携わる人間は、少なからず特権的な立場にあり、その意味ではノブレス・オブリージュが適用される集団であること、そして、その特権を信任している人たちを裏切ることのないような徳性を持つべきであるという意見についても私は賛成します。

 ただ、「社会的な地位が高い人間はその分徳が高ければならない」と言う義務感の背景には、その逆説である「私たちは徳の高さにおいて社会的地位を守られている」と言う考え方が私にはちらついてしまいます。そして、もう一つ重要な点は、ノブレス・オブリージュのコードを守ることを義務づけられている立場にある人間は、支配的階級にあるのであるという前提を社会構造の中で作ってしまうという危険性です。ノブレス・オブリージュはその階級にあるものには基本的にツッコミを入れる人がいないという前提で発動される倫理コードであるといえます。ツッコミを入れる人がいないからこそ、自分で自分を律していく必要があるのです。逆に言うのであれば、ノブレス・オブリージュを持つ立場にある人間ということを自覚した時点で、「自分は人から突っ込まれない存在なのである」という自覚が発芽するということなのです。私は、医療や教育、さらには紛争解決などの仕事に立つ人間にとってこの自覚は大変危険なものであると考えています。自分はノブレス・オブリージュのコードを持つものであるから、すなわち私は高貴な存在であるとか、すなわち私は正しい存在であるとかという自覚を、その人間を持つべきではありません。現代社会はあらゆるメディアを通じて、あらゆる立場の人間があらゆる立場の人間に対して批判をすることができる時代です。そこでノブレス・オブリージュは、時代遅れの人の意見に聞く耳を持たない者として取り残されてしまうかもしれません。

 田坂広志氏は「今後、この言葉は“高貴な人間が自覚するべき義務”から“恵まれた人間が自覚すべき義務”になっていくだろう」と著書の中で述べています。これは私にもとてもしっくりくる考え方です。現代社会において、もはや自らの高貴さを自覚するということは滑稽な行いのように私には思えます。政治家であっても、法の番人であっても、そして、医療や教育を任される立場にある人間であっても、常に人からツッコミを入れられる存在であり続けることが現代社会の調和の秩序を継続させていく上においては大変重要なカギなのでは無いかと考えるのです。もはやそれらの人間は高貴な存在ではありえません。一方で、それらの人間は依然として社会にある領域における特権を委託されており、個人の生活を営む上で比較的恵まれた環境に身を置く存在であり続けます。医師に代表されるヘルスケア従事者は、少なからずその面を持っているといいましょう。「高貴なる者の義務」であったノブレス・オブリージュのコードは、「特権を持つ者の義務」あるいは「社会的に比較的恵まれた立場にある者の義務」に置き換わっていく必要があると私は考えます。本書のテーマである「もはやヒポクラテスではいられない」の1つのオマージュは「もはや高貴な者ではいられない」と言う意味を含んでいるのです。

 では、その先にあるそのものたちの義務とは何でしょうか?それは「立派な人であるように」ということではないと思います。立派な人である必要など無いです。では何かというと、ひとつは、その者たちは、その特権を持つことに対して後ろ指を刺されるような態度や行動をとるべきではない。その特権を持つ上でふさわしい高い意識を持つべきだ、ということだと思います。かんたんにいうと「ちゃんとした専門家であれ」ということなのかと。もうひとつは「自分は恵まれた立場にあるんだから、それを標準として考えるのではなく、その恵まれた立場を謙虚に利用しなさい」ということかと思います。

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