見出し画像

ふくべ

今日は東京出張。仕事が4時前に終了したので東京駅の近くで軽く飲んでから新幹線に乗ることにした。どこで飲もう、駅のエビスバーにしようか、それとも八重洲地下街のおらが蕎麦で安く飲もうか、それともエリックサウスでカレー食べて帰ろうか。

そういえば八重洲に太田和彦さんおすすめの「ふくべ」という居酒屋があることを思い出す。4時30分の開店時間に合わせて行けば予約なくても入れるだろうと期待して、年期のはいった縄のれんをくぐる。すでに先客が4人、「6時まででもいいですか」とあらかじめ確認されて、カウンターに案内される。

席に着くと、ぐい飲みと割り箸、おしぼりがセットされたお盆が配られる。先客が樽酒をぬる燗でと注文していたので、同じものをお願いする。隣の人も、ひとりで来ているらしく、正面に並ぶ一升瓶をじっと眺めている。

カウンター奥から順番におつまみどうしますかと店主に聞かれる。奥の人も、私の左隣の人も、くさやを注文。私はくさやの臭いに耐えられるか心配だったので、鰺の干物。本当はしめ鯖や、たこ刺しもいいなと思っていたのだが、みんなくさやを頼んでいるので、そういう店なのかと思い刺身は控えた。

お客さんと店主さんの会話を聞いていると樽酒は菊正宗らしい。お酒は、瓢箪(ふくべ)が描いてある小さな徳利で提供される。絶妙の温度加減のぬる燗、口にふくむと樽酒独特の杉の香りがぷんと立ち上がる。しばらくすると、50歳代と思われる中年なサラリーマンが20代のと思しき部下を引き連れて入店。

この二人と私の右隣の70歳近い常連さんと思しき方の会話がはずむ。私もひとりで暇なので、あまり聞いていることが悟られないように、それとなく耳を傾ける。

今日は食品関係の展示会があったらしく、二人連れは神戸から出張で東京にきた模様。70歳代の方は、親子二代でこの店に通っていて親の代から数えると、もう75年のお付き合い。江戸っ子でいろんなお祭りで御神輿をかついでいる、などと、隣の会話を盗み聞きしていると、

厨房からなんとも香しい、3日はいた靴下のような匂いが漂ってくる。これがくさやの匂いか。嫌いな人は耐えられないかもしれない。くさやが順番に配られ、最後に私の鰺の干物が運ばれた。多分同じ網でやいているのか、ほんのりとくさやの香りがする。干物もくさやも身を骨からはずして、ひと口大にほぐしてくれているので食べやすい。量もたっぷりあって、なんならつまみはこれだけでもいい。

お銚子を飲み終わる頃、店主が二本目どうするか聞いてくる。同じものでいいかなと思っていたら、「本日は縁起のいい、立春朝絞りがあります。ぬる燗がおすすめです。」と進められる。どうしようかともごもごしていると、「他のにも菊姫とか北嶋がおすすめです。」とぐいぐいくる。菊姫はいつも飲んでるから、北嶋を熱燗でお願いする。

東京まで石川のお酒飲むのももったいない。と思っていたら、奥のカウンター二人連れの人が、「石川県のお酒ある?」と店主に尋ねる。なんだろうと思って聞き耳をたてていると、地震の復興を応援する意味で石川県のお酒を飲んでくれたようだ。涙がこぼれそうになるくらいうれしい。立ち上がって握手しようかと思ったが、変な客だと思われそうなので、ここは我慢しておとなしく北嶋を飲む。

二品目にはおでんを注文。焼き豆腐と大根、竹輪のおでんの基本のような構成。薄味で豆腐はしみじみと旨い。菊正宗の二人連れが注文したたらこ焼きが大きくて旨そうだったので、じろじろ見てしまった。店主さんに悟られて、「お客さんも同じものどうですか?他の人の料理っておいしそうに見えますもんね。」とこちらの心の動きを丸裸にされてしまう。おっしゃるとおり、そのとおりなのだが、おでんでお腹いっぱいになりそうだったので、今回は遠慮する。

左隣の人は、お酒を二本に、海鮮納豆を食べてから、卵かけご飯を注文していた。卵かけご飯にも惹かれたが、今日は我慢してお通しの昆布の佃煮で残りの酒を飲む。

二人連れと私の右隣の人の業界話が弾む。そのうちにお気に入りの居酒屋自慢が始まる。年の功か、右隣の人は次々の店を上げる。八重洲のおでん屋お多幸、秋葉原の居酒屋赤津加、神田のみますや、柳橋の焼き鳥屋、鳥茂、浅草橋の居酒屋、むつみ屋。「おっ、むつみ屋なら知っている。コロナになってからあまり行ってないけれど、塩らっきょうとか、馬刺しとか旨いんだ。」自分の知っている居酒屋の名前が出てきてうれしかったので、失礼も顧みず会話に首をつっこむ。

「むつみ屋、いいですよね。」

お土産にお通しの昆布佃煮を買って、お会計。安くはないけれど、高くもない。お店の雰囲気といい、店主さんの心配りといい、お客さんの雰囲気といい、素敵な店だった。

もちろん、料理が旨い、鰺の干物は、そこら辺の干物とは物がちがう。これだけで2合は飲める。酒に合うつまみしかない。干物、塩から、さつま揚げ、たらこ。お刺身。派手ではないけれど、食べたらぜったいおいしいと思わせるつまみばかり。

金沢にもこんな店があれば通う。気分がよくなったので、帰りに丸善によって東洋文庫の「胡適文選」を勢いで買ってしまった。

箸袋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?