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第1章成功するにはエリートコースを目指すべき? その①《リスクを冒さず、親や学校から言われた通りにするのは得か損か。高校の首席、無痛症の人びと、ピアノの神童から得られる洞察》

もしあなたが「痛みを感じない人」だったら?

アシュリン・ブロッカーは、先天性無痛症(CIPA)だ。

実際、彼女は生まれてこのかた痛みを感じたことがない。

外見はごくふつうの10代の少女だが、SCN9A遺伝子に欠陥があるため神経伝達がうまく働かず、痛みの信号が脳に届かない。


痛みを感じないなら楽だ、と思うだろうか?


待ってほしい。


ダン・イノウエ上院議員が次のように説明するだろう。


「子どもなら誰しもスーパーヒーローに憧れる。痛みを感じない先天性無痛症の子たちもスーパーマンのように扱われるが、皮肉なことに、その“超能力”自体が彼らの命を危険にさらす」


ジャスティン・ヘッカートによる『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』誌の記事によると、両親が異変に気づくまで、アシュリンは骨折した踵でまる二日も走りまわっていた。


やはり先天性無痛症のカレン・カンは、第一子の出産で骨盤を粉砕していながら、数週間経って腰周りの筋肉が硬直して歩けなくなるまで、その事実にまったく気づかなかったという。


先天性無痛症の患者は寿命が短い傾向にあり、小児期に亡くなることも珍しくない。


乳児のじつに半数が、四歳の誕生日を迎えることがらできない。ケガを恐れる両親に幾重にもくるまれ、体温が上がりすぎても泣き声一つあげない。

無事に育っても、舌先を噛み切ってしまったり、目を擦りすぎて角膜をひどく損傷したりする。


成人しても生傷がたえず、骨折を繰り返す。


目で見て初めてあざや切り傷、やけどなどの異常に気づくので、毎日自分の体をチェックしなければならない。


虫垂炎など、内臓の問題になるととりわけ深刻だ。

本人は何の症状も感じないまま、亡くなってしまうこともある。

それでもアシュリンのようになってみたい!と一瞬でも思う人は多いかもしれない。

歯の治療が怖くなくなるし、けがや病気の痛みとも無縁だ。

偏頭痛や腰痛に悩まされることもない。


医療費と生産性の低下という観点からすると、痛みによる損失は、アメリカで年間約六五兆〜七四兆円にものぼる。

アメリカ人の十五%は慢性痛に悩まされているので、喜んでアシュリンと替わりたいと言う者は少なくないだろう。

ベストセラー小説『ミレニアム2 火と戯れる女』に登場する悪漢の一人は先天性無痛症で、この病気が超人的な能力として描かれている。

プロボクサーであるうえに無痛症というその悪漢は、歯止めの利かない強大な力をもった真に恐るべき敵だった。

こんな風に、私たちの弱点がじつは強みに変わるのはどんなときだろう?

もしかしたら、ハンディとスーパーパワーをあわせ持つ、統計でいえば “はずれ値” の者のほうが有利なのではないか?


それとも、釣り鐘曲線の真ん中に位置するほうが幸せな人生を歩めるだろうか?


多くの人は、危険を冒さず、既定路線を生きるように奨励されている。


しかし、つねに規定された「正しいこと」を行い、リスクを最小限にする生き方は成功への道だろうか?

もしかしたらそれは、凡庸な人生への道ではないだろうか?

この疑問を解くために、つねに規則を守り、正しい行いをしている模範生を見てみよう。


高校の首席たちは、どんな人生を歩むのだろう?

わが子が首席になることは、親たちの夢だ。


母親たちは「一生懸命勉強すればいい人生が約束される」と子どもたちに言う。


多くの場合、それは正しい。



だが、いつもそうとは限らない。

なぜ高校の首席は億万長者にらなれないのか

ボストン・カレッジの研究者であるカレン・アーノルドは、一九八〇年代、九〇年代にイリノイ州の高校を主席で卒業した八一人のその後を追跡調査した。

彼らの九五%が大学に進学し、学部での成績平均はGPA三・六で(三・五以上は非常に優秀とされ、二・五が平均、二以下は標準以下)、さらに六○%が一九九四年までに大学院の学位を取得。



高校で学業優秀だった者が大学でも成績良好なことは想像に難くない。その九○%が専門的キャリアを積み、四〇%が弁護士、医師、エンジニアな
ど、社会的評価の高い専門職に就いた。



彼らは堅実で信頼され、社会への順応性も高く、多くの者が総じて恵まれた暮らしをしていた。




しかし彼らのなかに、世界を変革したり、動かしたり、あるいは世界中の人びとに感銘を与える
までになる者が何人いただろう? 答えはゼロのようだ。



アーノルドの見解は次の通り。





「首席たちの多くは仕事で順調に業績を重ねるが、彼らの圧倒的多数は、それぞれの職能分野を第
一線で率いるほうではない」


「優等生たちは、先見の明をもってシステムを変革するというより、むしろシステム内におさまる
タイプだ」




この八一人がたまたま第一線に立たなかったわけではない。調査によれば、学校で優秀な成績をおさめる資質そのものが、一般社会でホームランヒッターになる資質と相反するのだという。

では、高校でのナンバーワンがめったに実社会でのナンバーワンにならないのはなぜか?



理由は二つある。



第一に、学校とは、言われたことをきちんとする能力に報いる場所だからだ。



学力と知的能力の相関関係は必ずしも高くない(IQの測定には、全国的な統一テストのほうが向いている)。



学校での成績は、むしろ自己規律、真面目さ、従順さを示すのに最適な指標である。




アーノルドはインタビューで、「学校は基本的に、規則に従い、システムに順応していこうとする者に報奨を与える」と語った。



八一人の首席たちの多くも、自分はクラスで一番勤勉だっただけで、一番賢い子はほかにいたと認めている。



また、良い成績を取るには、深く理解することより、教師が求める答えを出すことのほうが大事だと言う者もいた。



首席だった被験者の大半は、学ぶことではなく、良い点を取ることを自分の仕事と考える「出世第一主義者」に分類される。




第二の理由は、すべての科目で良い点を取るゼネラリストに報いる学校のカリキュラムにある。




学生の情熱や専門的知識はあまり評価しない。



ところが、実社会ではその逆だ。



高校で首席を務めた被験者たちについてアーノルドはこう語る。




「彼らは仕事でも私生活でも万事そつなくこなすが、一つの領域に全身全霊で打ち込むほうではな
いので、特定分野で抜きんでることは難しい」



どんなに数学が好きでも、優等生になりたければ、歴史でもAを取るために数学の勉強を切りあげなければならない。



専門知識を磨くには残念な仕組みだ。だが ひと度社会に出れば、大多数の者は、特定分野でのスキルが高く評価され、ほかの分野での能力はあまり問われないという仕事に就くのだ。

皮肉なことに、アーノルドは、純粋に学ぶことが好きな学生は学校で苦労するという事実を見いだした。



情熱を注ぎたい対象があり、その分野に精通することに関心がある彼らにとって、学校というシステムは息が詰まる。


その点、首席たちは徹底的に実用本位だ。彼らはただ規則に従い、専門的知識や深い理解よりひたすらAを取ることを重んじる。



学校には明確なルールがあるが、人生となるとそうでもない。



だから定められた道筋がない社会に出ると、優等生たちはしばしば勢いを失う。



ハーバード大学のショーン・エィカーの研究でも、
大学での成績とその後の人生での成功は関係がないことが裏づけられた。



七○○人以上のアメリカの富豪の大学時代のGPAはなんと「中の上」程度の二・九だった。




ルールに従う生き方は、成功を生まない。



良くも悪くも両極端を排除するからだ。




おおむね安泰で負のリスクを排除するかわりに、目覚ましい功績の芽も摘んでしまう。




ちょうど車のエンジンにガバナー(調速機)をつけて、制限速度を超えないようにするのと同じだ。




致死的な事故に遭う可能性は大幅に減るが、最速記録を更新することもなくなる。



ルールに従い、いつも安全策を取る者が頂点を極めないのなら、ひとかどの成功者になるのはいったい誰なのか?

国を救った「危険人物」



ウィンストン・チャーチルはイギリスの首相になるはずがない男だった。



"すべて完璧にこなす 政治家とはど遠い彼が首相に選ばれたことは、衝撃的な出来事だった。



たしかに切れ者ではあるが、その一方で偏執的で、何をしでかすかわからない危険人物というのが
もっぱらの世評だったからだ。



チャーチルは二六歳で英国議会議員になり、政界で順調に頭角を現したが、次第に国家の要職には適さない人物だと見られるようになった。



六○代を迎えた一九三〇年代ともなると、その政治的キャリアは事実上終わっていた。



いろいろな意味で、チャーチルは前任者のネヴィル・チェンバレンの引き立て役に甘んじていた。



チェン バレンといえばすべてを完璧にこなす、まさに典型的なイギリス首相だったからだ。




イギリス人は、首相をうかつに選んだりはしない。



たとえばアメリカの大統領と比べて、歴代の首相は概して年長で、適性を厳しく吟味されて選ばれるのが通例だ。


異例の早さで権力の座に上りつめたジョン・メジャーでさえ、アメリカ大統領の多くに比べ、首相職への備えができていた。




チャーチルは、異端の政治家だった。



愛国心に満ち溢れ、イギリスへの潜在脅威に対してパラノィア的な防衛意識を貫いた。



ガンジーさえも危険視し、インドの自治を求める平和的な運動にも猛反対した。



チャーチルは自国を脅かすあらゆる脅威に声高に騒ぎたてるチキン・リトル (臆病者)だったが、まさにその難点ゆえに、歴史上最も尊敬される指導者の一人となった。




チャーチルはただ独り、早い段階からヒトラーの本質を見抜き、脅威と認識していた。



一方チェン バレンは、ヒトラーは「約束をしたら、それを守ると信じられる男」という考えで凝り固まっていたので、宥和政策こそナチスの台頭を抑える方策だと確信していた。



ここぞという重大な局面で、チャーチルのパラノイアが本領を発揮したといえる。



いじめっ子に弁当代を渡したら最後、もっと巻き上げられるだけだ、奴の鼻を一発ぶん殴らなければならない、と見抜いていたのだから。


チャーチルの熱狂的な国防意識――危うく彼の政治生命を滅ぼしかけた――は、第二次世界大戦前夜のイギリスになくてはならないものだった。



そして幸運にも国民は、手遅れになる前にそのことに気づいた。

偉大なリーダーの意外な条件



頂点にたどり着くのは誰か?という答えを見いだすために、ここで少し視点を変えてみよう。


偉大なリーダーの条件は何だろうか。



長年にわたって、そもそもリーダーの存在は決定的に重要かという点で研究者の議論は分かれて
いた。


いくつかの研究では、偉大なチームはリーダーがいてもいなくても成功をおさめると証明された。


だが別の研究では、チームが成功するか失敗するかを決める重要な要因は、カリスマ性のあるリーダーであることが示された。



要するに議論が紛糾していたのだが、そこに有用な指摘をしたのはゴータム・ムクンダという研究者だった。



ハーバード大学ビジネススクールのムクンダは、それまでの研究結果に一貫性がなかった理由は、リーダーが根本的に異なる二つのタイプに分かれるからだと分析した。



第一のタイプは、チェンバレンのように政治家になる正規のコースで昇進を重ね、定石を踏んでものごとに対応し、周囲の期待に応える「ふるいにかけられた」リーダーだ。



第二のタイプは、正規のコースを経ずに指導者になった「ふるいにかけられていない」リーダーで、たとえば、会社員を経ずに起業した企業家、前大統領の辞任や暗殺により突然大統領職に就いた元副大統領、あるいはリンカーンのように予想外の状況下でリーダーになった者などを指す。




「ふるいにかけられた」 リーダーは、トップの座に就くまでに十分に審査されてきているので、常識的で、伝統的に承認されてきた決定をくだす。



手法が常套的なので、個々のリーダー間に大きな
差異は見られない。



リーダーが及ぼす影響力はさほど大きくないとした研究結果が多く見られた理由はここにある。




しかし「ふるいにかけられていない」リーダーは、システムによる審査を経てきていないので、過去に"承認済みの、決定をくだすとは限らない――多くの者は、そもそも過去に承認された決定すら知らない。



バックグラウンドが異なるので、予測不可能なことをする場合もある。




その反面、彼らは変化や変革をもたらす。ルールを度外視して行動するので、自ら率いる組織自体を壊す場合もある。



だがなかには、少数派だが、組織の悪しき信念体系や硬直性を打破し、大改革を成し遂げる偉大なリーダーもいる。



多くの研究結果に見られた、多大なプラスの影響を及ぼすリーダーとは彼らのことだ。



ムクンダは博士論文でこの理論を適用し、米国の歴代大統領を二種類に分類し、それぞれの政策
のインパクトを検証した。



結果は驚くべきものだった。大統領の影響力が、じつに九九%という並外れた統計信頼度で予測されたのだ。



「ふるいにかけられた」リーダーはことを荒立てずに済まそうとする。


「ふるいにかけられていない」リーダーは逆で、ことを荒立てずにはいられない。



システムや制度を破壊することもしばしば
だ。だがときにはリンカーンのように、奴隷制のような悪しきものを壊すこともある。




ムクンダ自身、このことを実際に体験した。型破りな博士論文のおかげで、彼は研究職の就職市場で外れ値,に位置した。



五〇校に応募したが、ハーバードやMIT(マサチューセッツ工科大学)の学位がありながら受けられた面接はたったの二つ。



大学側は、「政治学入門」を教えられる月並みな――「ふるいにかけられた」研究者を求めた。



独創的な研究ゆえに、伝統的な教授職の候補になりにくかったのだ。



多彩な教授陣を擁するのに十分な資金を有し、規格外のカリスマを求める大学だけが、ムクンダのような研究者に関心を持った。



結局、ハーバード・ビジネススクールから誘いがかかり、受諾したのだった。




インタビューに応じてくれたムクンダは私にこう語った。



「良いリーダーと偉大なリーダーの差
は程度の問題ではなく、両者は根本的に異なる人間なのです」。



宥和政策の失敗を見た英国民が、「もっと良いチェンバレンを」と、同じ従来型の首相を求めて
いたら、見るも無残な結果になっただろう。



彼らが必要としたのはもっと「ふるいにかけられた」リーダーではなく、システムがこれまで締めだしてきた規格外のリーダーだった。



伝統的なやり方が通用しなかったのに、同じパターンをくり返したら悲惨な結末になる。



ヒトラーのような敵を倒すには、異端のチャーチルこそが最適だったのだ。




「ふるいにかけられていない」リーダーはなぜインパクトが大きいのか?とムクンダに尋ねたところ、ほかのリーダーと決定的に異なるユニークな資質を持つからだと答えてくれた。



ただし、「並外れて賢い」とか、「政治的に抜け目ない」わけではない、とも。




ユニークな資質とは、日ごろはネガティブな性質、欠点だと捉えられていながら、ある特殊な状況下で強みになるものだ。



そうした資質は、たとえばチャーチルの偏執的な国防意識のように、本来は毒でありながら、ある状況下では本人の仕事ぶりを飛躍的に高めてくれるカンフル剤になる。



ムクンダはそれを「増強装置」と名づけた。



この概念こそが、あなたの最大の弱点を最大の強みに変えてくれる秘訣なのだ。

普通の暮らしができない天才ピアニスト



天才ピアニストのグレン・グールドは重度の心気症(病気や細菌に脅える神経症の一種)だった。




いつも手袋をはめていて(何枚も重ねていることも珍しくなかった)、カバンいっぱいに薬を詰めて持ち歩いていた。



人前で演奏するのも、移動してホテルに泊まらなければならないコンサートツアーも大嫌い。


だいたい三割の公演を取り止めにし、ときには、せっかく日程を組みなおした公演を再度キャンセルしたりする。



「コンサートには行かない。自分のでさえときどき行かないんだ」とは本人のジョーク。



たしかに変人だが、同時に、二〇世紀を代表する偉大な音楽家でもあった。


グラミー賞を四度受賞し、アルバムを何百万枚も売り上げた。



しかも、グールドはただ病気恐怖症だったわけではない。さまざまな意味で異様だった。




毎朝六時に床に就き、午後に目覚める。搭乗予定の飛行機が不吉に思えると、チケットをキャン
セルした。



極度の寒がり屋で、夏でも冬服で過ごし、日用雑貨をごみ袋に入れて持ち歩いた。



フロリダでホームレスと間違われ、警察官に逮捕されたこともある。



むちゃくちゃな運転ぶりから、彼が運転する車の助手席は友人たちのあいだで,自殺席。と呼ばれた。




「まあ、上の空で運転してるかな。ときどき赤信号を通り抜けるのはたしかだしね。でも、青信号ではけっこう止まってる。ちっとも褒められないけどね」と本人も認めている。




演奏ぶりも異様極まりない。



ケビン・バッザーナは、グールドの伝記のなかで「よれよれの服装で猿のように鍵盤にかがみこみ、腕を振りまわし、胴を回転させ、頭を上下に揺らしながら……」
と説明している。




念のために言うが、彼はジャズピアニストでもエルトン・ジョンでもない。



演奏するのはバッハだ。



特製の椅子』のことも忘れてはならない。


グールドの椅子は床から三○センチほどしかない低いもので、浅く前のめりに座るのに具合がいいように前方に傾斜していた。



要求の多い息子のために父親が折り畳み椅子の脚を切って作ってくれた椅子だった。


グールドは生涯この椅子を使い続け、世界中どこへでも持って行った。


長年使ううちにあちこちが傷み、しまいには針金やテープでつなぎ止めてあったので、きしむ音がレコードに入り込んだほどだ。



これほどエキセン トリックでも、グールドの演奏はしびれるほど感動的だった。



名指揮者のジョージ・セルに「天才とは彼のことだ」と言わしめるほどに。




グールドの演奏技能、名声、成功は、決して簡単に成し遂げられるものではない。



まさに神童だった彼は一二歳にして一人前のプロ演奏家たる技術を身につけていた。



だがその反面、人前でぎこちなく、繊細すぎる子だったので、周囲に子どもがいる環境に馴じめず、家で何年か家庭教師についていた。



もしかしたら、グールドは世の中でやっていけない人間になっていたかもしれない。



ではどうやって成功し、偉大な音楽家として名を馳せたのか?



幸運にも、彼はその繊細な気質に最適な環境に生まれた。



両親は、ほとんどありえないほど彼を惜しみなく支援した。



母親はひたすらグールドの才能を伸ばすことに献身し、父親は息子の音楽教育に年間三〇〇〇ドルを費やした(大したことないように聞こえるかもしれないが、一九四〇年当時の三〇〇〇ドルは、トロント住民の平均年収の二倍に相当する)。




こうした惜しみない援助と、神経症によって助長された本人の飽くなき労働意欲をもって、グールドの才能は開花した。




彼はレコーディング作業に入ると、スタジオに一日一六時間、週に一〇〇時間も籠ったという。



録音スケジュールを組むときにカレンダーなど目に入らない彼に、世の中の人は感謝祭とクリスマスには働きたがらないと、誰かが伝えなければならなかった。




演奏家の卵からアドバイスを求められると、彼はこう言った。




「演奏以外のすべてを諦めることだ」




順調にキャリアを築いていたグールドだが、突然聴衆の前から姿を消す。



「人生の後半は自分のために生きたい」と、三二歳でコンサート活動の中止を宣言したのだ。



生涯に行ったコンサートは全部合わせても三〇〇回足らずで、おおかたの演奏家なら三年ほどでこなせる回数にすぎない。




その後も彼は狂ったようにピアノに打ち込んだが、聴衆の前では二度と演奏しなかった。



仕事は、彼が望む世界を保てるスタジオ録音だけに限られた。




だがなぜか、公演活動からの引退により、音楽界でのグールドの影響力は衰えるどころか逆に強まった。



伝記を書いたバッザーナによれば、彼は「劇的な形で姿を消すことによって存在感を維持」し続けた。




そして一九八二年に亡くなるまで仕事を続け、その翌年、グラミー殿堂賞を受賞した。




自らの奇行ぶりについて、グールドはよくこう言った。


「自分では、それほど変わってると思わ
ない」。



バッザーナはこう分析する。



「思考や言動のすべてがほかの人とはかけ離れているのに、自分ではそれほど変わり者だと思っていない――それこそが奇人たる証拠なのだ」。



次回につづく…


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