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映画のエンドロールは現実に帰るための儀式

ここのところ映画館に行くと没入して抜け出せない。

元々私は映画はできれば映画館で見たい派だ。
家の環境だと通知だったりピンポンだったりカラスの鳴き声だったり子供のはしゃぐ声だったり、まあ色々な音が聞こえてくる。
カーテンを閉め切ってヘッドホンをしても日常から逃げきれないのが家での映画鑑賞になる。
もちろん、その代わり見てる途中で具合悪くなったら好きに中断してトイレに引きこもれるのがいいところだと思う。

それを思えば映画館はお金を払って座席は固定になる。さらにどでかいスクリーンと音響設備で、私はここに来ると「映画が終わるまで逃げられない」という気持ちになる。これから映画が終わるその時までこの空間内にいる人たちとは一蓮托生で、この映画が私たちに何を見せたとしても最後まで見届けるんだと思っている節がある。

そんなだから没入感がかなりある。
最初の20分くらいに感じていた「映画を見ている」という一歩引いた気分が、いつの間にやら映画の物語の舞台と同じ土地にいる人間のつもりで覗くというところまで引き込まれる感覚がすごく気持ちいい。楽しい時もあればハラハラする時もあるし、不快な思いをさせられる時もあればそっと救われる時もある。

そういう体験をしたあとでエンドロールを流されると最近、「あ、ここから現実に戻らないといけないんだな」と思うようになった。
没入したらした分だけ登場人物の誰かに近い想いを今持っているのに、このエンドロールが流れ終わるまでにその気持ちを一旦おいて私が生きている現実の世界に戻らなければいけないのがすごく悔しい。
もう少しその気持ちを持つに至った経緯とその気持ちを大事に抱えていたいのに。その気持ちに、このエンドロールが終わるまで少し距離をおかないと座席を立てないとわかっているから。
エンドロール内で頑張って距離を置こうとしている時にエンドロールそのものが現実に帰るための儀式なんだと思えるほどにその瞬間が辛い。
しかもそういう時にかかる主題歌は大抵余韻を誘ってくるので、今から現実に帰るっていうのに後ろ髪を引かれる。
たまに、ごく稀に、主題歌そのものが例えるなら夕方の公園でなるチャイムみたいな現実への帰還を促してくるものもある。あれは有難い。

だから、最近はエンドロールが長い映画の方がいいというか、助かると思えるようになった。

エンドロールの長さは映画本編とのお別れに必要な長さなんだと思った。

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