「描けない」理由がわかった日

大好きなものについて思うように描けなかった。

コミケが終わってからも、私はずっと「思うように描けなかったこと」について悩んでいた。このままでは冬も、次の夏もまた同じことなのだし。
といえ、誰に聞いてもわかるわけないどころかただ慰められて終わるような気がして一人でずっと考え込んでいた。

実は、私の知り合いに一人社会人になっても本やグッズを出し続けるオタクトライアスロンの民がいる。
その人が今なお精力的に活動しているので「いや社会人になってももしかして活動できるのでは?」と思った…こともあったりした。

もう一番動ける人に聞こう、多分それが早い気がする。
続けられている人に聞くのがいいような気がするということでちょっと聞いてみた。
今なお続けられる秘訣は3つだそうだ。

社会人になっても描くことを続けるために

①仕事を大事にしないこと

これはわかる。
仕事にのめり込むと仕事=生きがいになる。全然その生き方の人がいても構わないと思うが、私自身はそうもいかない。今している仕事は「描くこと」とは結構関係ないし。描き続けるためには仕事はほどほどに考えて人生のリソースに余裕を作った方がいいかもしれない。

②作品への愛

これもその通りだ。
作品やキャラクターへの愛あればこそ、作品は生まれる。
創作でも同じで、自分の作ったキャラクターにどのような形であれ愛が向けられているからこそ動かせると思う。

③自己の存在証明

これを聞いた瞬間ガラスのかけらが心臓にささったかのような痛みが、確かにあった。
存在証明だって?
一旦落ち着こう、辞書でも引いて意味でも確認しておこう。

そんざい‐しょうめい【存在証明】
そのものが確かに存在すると証明すること。

デジタル大辞泉

でしょうね。読んで字の如くだ。
己の存在を証明するためにまさか活動しているなんて思いもしなかった。
つまり知り合いは自分が作品やキャラクターへの愛を叫ぶ姿は存在証明たり得ると思っている事になる。まあ、一人一人抱える愛の形はちがうし、可能だと思う。

そういうことが言いたいのではなく。
私はそりゃあ描けないはずだと思い知ったのだ。

どうして「描けない」のか?

だって私は死んだら私のことを可能な限り忘れて欲しいと思っているし、いま誰かに私のことをおぼえていてもらう努力すらしていない。
自分にはそんな価値ないし、誰かと懇意にしていると他人の人生にお邪魔する時間が長ければ長いほどちょっと申し訳ないとさえ思っているし。


つまり、自分がいた証を能動的に残そうとしていないんだ。

私自身は作品やキャラクターへの愛についてはそれなりの自信を持っているし、今の仕事には完全な生きがいはおそらく見出せない。
となると、仮に存在証明のためにこれからも活動し続けるならにはなるが、やはり自分の価値を認めなければならない。
(ここで価値があるかないかから始めてはいけない。ひとまずこの多様性社会には「価値が多かれ少なかれある」ことは信じるところから始めるのがいいと思うことにする。)
そしてそのためには、やっぱり、どうしたって。
自分を大切にすることが必要なんだと思った。

結局ここに戻るのか。

この記事中で友人に言われたとおりであった。

いよいよこれは自分を大切にすることを理解して始めないといけないんだなと痛感した日だった。



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