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「大きな人間」 - 幼児期の精神からの思索

7月2日の走り書きから

人類という大きな人間。
ここに歴史、一人一人の人間、国、歴史。
歴史は大きな人間の生涯。
何万年?何千年もの昔から生きてきた、この大きな人間の細胞のように、「私」は生み出され、今、その細胞のひとつのように生きている。

物質的には、細胞は死んで、新たな細胞がまた生まれゆく。
精神としてのこの大きな人間は、今どうなのだろう?

『クロウリーは、私たちは人間として発展途上の幼児期の段階にいると判断した。』(魔術師のトート・タロット P30)

今もそうか。
「私」というものが、個人意識でないなら…というのは、この大きな人間のうちだからだとしたら、(クロウリーが述べている)「幼児期」から、「新しいアイオーン」へ大きな人間が移行していくために、「私」と認識している自分の・・・生き様に、もし変化が生じたら、大小という単位を超えて、この大きな人間に変化が生じざるをえないのではないか?
言い換えれば、だからこそ私たちの意識がそうして移行していかなければ、この大きな人間は、幼児期のままなのではないか?

(走り書き終わり)

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歴史を知れば知るほど、その罪、呆然となるほどの行いが私の中に刻まれる。
そしてそれらを今まで何にも知らずに、ぬくぬくと生きてきたことの何たるかを静かに示される。

何万人、何百万人もの命が殺されていく歴史の流れを、キリストはどんな思いで見守っておられたのだろうかと思う。
第一次大戦、第二次大戦を追うだけでもそう感じるのに、振り返ってみれば、人間はずうっと戦争を繰り返してきたのだった。民族紛争は何千年も前からあった。

人類が大きな人間だとしたら、過ち、罪もそこに入っている。全部入っているはず。
私が一部であるということは、私の中にそれらの罪もあり、その一部でもある。
『善をなす者なし。一人だになし。』というのは、このことなのだと思う。

ただ自分自身の行いを人類のうちの一つとして溶かし込んでしまうのは誤りで、視点を混同させないよう、気をつけていないといけない。
大きな人間の一細胞としての私と、私という一人の人間と、両方の存在の認識が、必要だと思う。少なくとも、今の私には。

一方、私の前に提示される歴史を知ると、自分の中で新しい関わりとして歴史が生き始める。
過去でありながら、過去でなくなる。
戦争は終わっていない感覚として、"ここ" に現れてくる。ここというのは、どこなのだろうか。精神だろうか。
その終わっていない感覚とは、どの戦争がではなく、人類が戦争というものを手放していないからだと思う。手放さない限り、終わっていない感覚は続く。

そして、歴史と共に、亡くなった夥しい数の兵士や民衆と、共に生きている気がする。
それは私も、大きな人間の一部として生きているからではないだろうか。

歴史を生き続けるこの大きな人間とのつながりを感じ始めると、人間が犯し続けてきた罪も、亡くなった人たちも、自分のものとして関わりができる気がする。
あなたは何を知っているのか、その罪の詳細や人々の素性を知っているのかと問われたら何も言えないのだけれど、つながっていないはずがないというものが、大きな人間を通して、開通されるように感じる。

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 ベルジャーエフの言う宗教的啓示とは、霊性的認識のことであり、それは「神と人間との合一」(それが「ミクロコスモスとしての人間」)から認識されるものを指す。そしてそれが、必然性として「そのように認識されねばならない」のではなく、「自由な直観」として把握されるものでなければならない。

 彼にとって「精神」とは霊性のことであり、それは生きる意味の道と道程が揺るぎなく把握されて行動を起こすことである。したがって、彼の言う精神は「存在」ではなく「実存」である。そして、われわれの生の探求もまた、自己探求や自己認識ではなく、「ミクロコスモスとしての人間」の探求にならなければならないとわたしは思っている。そしてそれは、日々の生活の中における実存的なものでなければならない。実存的な、しかも「ミクロコスモスとしての人間」の探求でなければ、古代神話のイシスがやった「地の果てまでの探求」にはならないからである。人間はひとつの宇宙なのであり、宇宙は巨大な人間である。タロットの行き着いた先も「そこ」である。

自然世界の限界を突破する「高次の自己意識」 (『太陽の船に乗る』 より)

師が言われる「人間はひとつの宇宙なのであり、宇宙は巨大な人間である」という箇所を読んで、自分の中に生じた「大きな人間」とその細胞のひとつである自分というイマジネーションが重なりました。

それは、"私の学びは私自身からのものでない" ということを示唆する、たくさんのしるしのひとつなのではと思います。

一見、似ても似つかない師のこの探求と私の思索において、符合するものを感じたのです。この一笑に付されることを敢えて発するのは、私の思索は学びのための思索であり、その学びは師からのもので、師はその恩師から継承され…と、そこには「継承」というものがあるからです。
その「継承」には人間には不可知の「生命」が宿っていて、その「生命」は超越しているので、私がどんな人間であろうと、どんなレベルであろうと関係ないのです。
(ここでの「生命」とは、私たちの知っている肉体的生命とは異なります。)

それは私という存在が、大きな人間のうちの一つの細胞であることともつながると思います。
人体の細胞は優劣等と関わりないどころか、その概念すら持たず、細胞と細胞の間にある組織液から酸素や栄養素が細胞に浸透していき、細胞はそれらを受け取るのです。

私という存在のどんな側面も、「継承」には何一つ影響はない。無力なので、与えるはずがない。
「生命」によって注がれる、ただそれゆえに、そのしるしが符合として顕れるということなのだと捉えます。
そうして、この現実での存在価値とは無関係に「継承」は途絶えることなく行われ、続いていくのだろうと。

これらの思索そのものが私から生じていないことを、学びと直観によって感知しているとすれば、自分を「検体」としてこれらのことを実証することが、私に与えられた目的であると、思います。

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