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生きるということ

ハンセン病。
との縁。自分なりのつながりができました。

言葉にするのに緊張しますが、私はこの病の歴史との関わりを、これまでどこかで求めていました。

今年に入ってから、あるきっかけがありました。ラジオでハンセン病の方の詩を聴いてショックを受けました。それは、圧倒的でした。
うまく言えないけれど、#12のハングドマンのようでした。
人権侵害や差別としての側面は非常に大切なことなのですが、そこだけではない、とんでもない生命力が、療養所で生きた人たちから生まれ続けていた。と、そのラジオからは発されていました。実際に足を運んでみてほしいとも言っていました。
それで、自分を圧倒したものはどんなところから生まれたのか、自分も確かめてみたくて行ってきました。

結果、いろんなことにぶつかりました。



この施設に収容されたことは、本当に悲劇そのものだったのか?
自分の無知に逃げたくはないですが、答えになるものは、ない気がします。

ただ、この療養所(長島愛生園)で暮らしていることに誇りを持っている。と、そこで暮らしていた方の一人は仰っていたそうです。
この言葉を憶えていたいです。

数百名の収容人数に対して、多い時は千人単位でオーバーしていたことは、あの"無らい県運動"によるものということでした。
しかしながら、ここなら居場所があるという思いで来られ、入所できずに建物の外にテントを張って入所を待っていたり、あるいは入所を断られたことに絶望して、市街へ戻っていき自ら命を絶たれた人の話も聞きました。

この療養所では、入所者の方々が面倒をみられるというより、入所者自身が自分たちの食べ物として畑を耕したり、そして給食を作ったり、また軽度の患者が重度の患者の看護をしていたことなどが行われてきたと聞きました。

人材不足という理由、その背景があるのですが、しかしこのことについて… 私はそれらに創造の働きを感じずにはいられませんでした。

ただ何もせずベッドにいたりするんじゃなくて、不自由ながら、それらを自分たちでやる、何かを作るというのは、存在意義の罠に陥ることを防いだかもしれないと、私は思いました。

「近藤さんいいかね。プロミン(治療薬)は、わしらを肉体の苦痛から解放した。予防法運動は、わしらの生活を向上させる。それは、すばらしいことだ。しかし、そうした政治や医学だけでわしらの全てが解決するだろうか。わしらの心の底にあるものが、生きるということが、全て解決するだろうか。ここの所をよく考えてほしいんだ。近藤さん、不自由であっても、わしら自身が楽しみを求め、喜びを生み出すそんなことができないものだろうか。心のささえというか、生活の目標というか、わしが楽団を作りたいというのは実はここにある。問題は山ほどあろう。障がいもまちかまえていると思う。しかし、そうしたことを皆で話し合い、お互いに知恵を出し合っていこうではないか。近藤さん、わかってくれたかね。」

片足を少し引きずるくせのあるその足音をガラス戸越しに見送ってから、私は立ち上がっていた。押し入れをあけ、手前にある荷物を押しのけ、奥の方で下積みになっている古いトランク…、そして、瞬間ちゅうちょしたが手をさし入れてみた。なれた指先になつかしいハーモニカの感触がそこにあった。
長島愛生園歴史館 2階 展示室より

想像を絶する残酷な歴史の体験を決して想像できない私が思うことを書くことについて、逡巡しました。

でもこの最後に引用したことばは、残したかったのです。
このことばに出会えて、ほんとうによかったです。


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