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水たまりの中を泳ぐこいのぼり

桜が散ったばかりなのに梅雨を思わせる空模様が続き、雨を気にしない我が家の犬と、雨は嫌だが犬の要望には応えたい私が、東京ドームの約1.7倍の広さの公園を独占する日が続いた。

昨夜の大雨から一転、今朝はまるで初夏のような晴天で、先週辺りからスタンバイしている巨大こいのぼりたちも5月の風を受けて気持ちよさそうに体をくねらせていた。世界情勢がどうであろうと、大きな口で風を飲み込みながら大空を泳ぐ鯉を見ていると、どこか希望のようなものが湧いてくる。

突然歩みが止まった犬に視線を落とすと、足元に水たまりが広がっていた。雨は気にしないが水たまりは気にする繊細な犬だ。決して水たまりに足を入れることはなく、巧みにかわしたり跳び越えたりする。後ろを行く私はいつも靴の中がチャポチャポになる。

ふと、さっきまで見ていたこいのぼりがその水たまりに映っていることに気づいた。優雅に空を泳ぐ鯉とは違い、窮屈そうに立ち泳ぎをする貧相なイトミミズのように見える。

これは天地万物に言えることだろう。共通している事実は「空を泳ぐこいのぼりが水たまりに映っている」ということ。この事実は、見る人、見る場所、見る角度によってさまざまに映し出される。

私は昔から「気にしすぎ」と指摘されることが多かった。他人の目に映る自分が理想の自分の姿であってほしいと願っている。私はなぜこんなに人の目を気にするのか。空を泳ぐこいのぼりと、水たまりの中のこいのぼりを交互に見ながら、周りの評価なんて実に勝手なものではないかと、今さらながら当たり前のことを自分に投げかけた。

もう何年引け目を感じながら生きているだろう。お金を生み出さないから?社会の役に立っていないから?私は雨で水たまりができるように結婚によってできた家庭という小さな囲いの中にいる。見える物は家族と、せいぜい近所の水たまりくらいだ。それでも主婦として、母として、自分にできうる全てをやってきたと自負している。

大切なのは、周りにどう映るかではなく、自分がどう思うか。私はこれまで水たまりに映る大空を気持ちよく泳いでいた。濃い日常を過ごしてきた。それで充分だ。もしもこの生活を窮屈に感じる時が来たら、その時は水たまりから飛び出せばいい。犬と一緒に水たまりを跳び越えよう。『およげ!たいやきくん』みたいな無茶な冒険になるかもしれない。でも、井の中の蛙だからこそ、空の深さを知ることができるに違いない。(1000字)

こいのぼり_写真


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