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籠の中の鳥はいついつ出やる

蛇行しながら駅まで伸びる緑道を愛犬と歩いていた。両サイドの植え込みを行ったり来たりする愛犬の後ろを、私もふわふわと続く。色とりどりの絵の具を少しずつ絞り出したパレットのような花壇、ひらひらと蝶と戯れる桜の花びら。降り注ぐ柔らかい日差しが一眼レフに映し出されたようなアウトフォーカスの世界を作り出す。

パタパタッ、という音に顔を上げた。西洋風のしゃれた家の真っ白な外壁にドーム型のアンティークな鳥籠が吊るされていて、中に薄オレンジ色のカナリアが腹を見せるように格子に止まっていた。

蒼天に映える桜と花々とオレンジのカナリア。インスタ映えしそうなその光景に、以前の私なら心躍らせただろう。それまでの浮かれていた足が一気に重くなる。巡る季節、芽吹く命、描かれた生命力の中に存在する自然との調和を乱すもの、今はそれが気になってしまうのだ。


籠の中の鳥はいついつ出やる

―籠の鳥。
自由が奪われている状態の喩え。

生意気盛りの思春期に多用した言葉だ。あの頃の私は、何を不自由だと叫んでいたんだっけ? 籠の中でめいっぱい駆け回り、時が来れば開いた扉から飛び出して今に至っている。

「籠の鳥」という言葉の意味を少し理解したのは、犬との暮らしを機に動物福祉について考えるようになってからだ。室内飼いをするため、簡易フェンスをたくさん購入し、部屋のあちこちに設置したが、次第にフェンスの必要性がわからなくなり、しまいには台所への侵入を阻止するフェンスのみにした。愛犬から行動の自由を奪うことに違和感を覚えたからだ。子どもの頃に飼っていた犬は、鎖に繋がれ庭の隅の小さな犬小屋にいたというのに。

繁殖犬として一生を窮屈なケージで過ごす犬たちがいることを知った時、「籠の鳥」という状況のむごさに震えた。この場合の問題は籠のサイズだけではない。奪っているのは「自由」よりもはるかに大きなものである。

生まれてきたときに選択する「自由」も与えられている

「幸せになりたい」って人は言うけれど、実はみんな、生まれた時に「幸せ」を与えられるんじゃないのかな、と最近思ったりする。生を受けて人生が始まる。それは己の道を選びながら進む旅。選択する「自由」があることが「幸せ」なんだと思う。

一つひとつの命に授けられるそんな尊いものを他人様から奪うには、よほどの覚悟が必要となる。奪うのではなく預かって生涯幸せにする責任を負う。動物をペットにするということは、つまりそういうことだ。

籠の中の鳥がいつか出る日を願って、今日も私は相棒と歩いていく。
(1,000字)

今日も明日も明後日もずっとずっと一緒に歩いていく


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