見出し画像

「どこでも住めるとしたら?」と自問したら人生の伏線が回収された

思いもよらないことがきっかけで、当時はわからなかったことの謎が解けることがある。久しぶりに開いたnoteにそんな人生の伏線回収のきっかけがあった。

***

今まで住んだ場所を数えてみるとざっと5か国、15都市くらいある。エリア内の移動を含めるとたぶん25回以上は引っ越しをしている。

「どこがいちばん良かった?」
新しい地で自己紹介をするたびによく聞かれたものだ。全く面白みのない回答で申し訳ないと思いつつ、いつも「どこも良かったよ」と答えていた。「住めば都」と言われるように、どこにでもその場所にしかない魅力があり、そこでしかできない楽しみがあったから。

「どこでも住めるとしたら?」
開いたnoteの隅っこにあったバナーから飛び込んできた問いに、思わず首をかしげる。おかしなことにどこも思いつかないのだ。日本の田舎にも都会にも、そして海外にも素敵な場所をたくさん見つけてきたというのに。

考えてみれば、これまで住んだ場所は自分で望んで選んだ場所ではない。担任の勧めで受験した大学に行くことになったからそこに住んだ。就職氷河期で行きたかったところが全滅だったから、唯一内定をもらえたところに行った。結婚後はすべて夫と夫の会社の選択に従い、数年単位で引っ越しを繰り返した。長い転勤族生活に終止符を打って帰国し、子どもの行くことになった学校の近くに腰を据えて今に至る。まるで誰かが振るサイコロでコマを進められてきたような、そんな人生と言ってもいい。

何も知らない、知り合いもいない土地で「都」だったと思えるほど充実した日々を過ごせたのは、幸運にも人に恵まれたからだ。行った先々で素敵な仲間ができ、その地を去った今でもクリスマスやチャイニーズニューイヤーになると近況を報告し合っている。自分の意思で住む場所を選べるのなら、彼らのいるかつての「都」に戻れば楽しいことは明らかなのに、どういうわけかそれらのどこも候補地に浮上してこないのだ。

彼らのおかげで私の「都」を築けたのではなかったの?

疑うことなく信じていた考えを少し緩めたその時、私の頭の中のピンボールマシーンのフリッパーが勢いよく球を弾いた。弾かれた球は最初の的に豪快に当たると、その勢いを保ったままジグザクの直線を描きながら次々に他の的に当たっていった。人生の伏線が見事に回収された瞬間。何とも言えない爽快感と幸福感に包まれた瞬間だった。

慣れない地で暮らしを充実させることができたのは、支えてくれる仲間に恵まれたからに違いない。でも、仲間との時間を楽しめる環境を与えてくれたのは紛れもなく「家族」であり、故郷にいる「両親」の存在だったと、散りばめられていた大小の伏線回収に成功し、やっと気付づいた私がここにいる。

回収した主な伏線はこの3つ。

1.娘の自己紹介にいつも書かれた「大切なもの:家族」
小学生がそんなことを思うだろうか、と当時は疑っていた。転入した学校で好印象を得るための策略だとすれば、娘らしからぬ行為だった。娘はいつも友達との別れを悲しみ、引っ越しを嫌がっていた。言葉の通じない外国の学校に行ったばかりの時は、泣き顔を見せることも多かった。楽しい場であるはずの学校が怖くて仕方なかったのだろう。それでもがんばって学校を休まずに行くことができたのは、家に帰るといつも家族がいたからだろう。私たちは特別キラキラした家族なんかではない。家族として当たり前のことを当たり前にして過ごしていただけのごく普通の家族だ。けれど娘は、今まで当たり前と思っていた家族がカタチとなって目に見えたのかもしれない。
「家族の支えで辛い時期を乗り越えられた」
そう考えるようになったのではないだろうか。自己紹介に書かれていた「大切なもの:家族」は、子どもながら彼女が自分の体験から得た学びだったということだ。

2.多拠点に故郷をつくる息子
息子は今、大学を休学し、若者の多拠点生活をサポートする事業を立ち上げ活動している。親の仕事の都合で中学3年になるまで定住をしたことのなかった息子は、出身地を聞かれても答えられないことを寂しく感じていた。そして、「故郷がないのなら好きな場所に自由に故郷を作ってやろう」、その逆転の発想が起業の原点となったようだ。

息子自身も長野の田舎に家をもち、家族のいるこの家との二拠点生活をしている。今後さらに拠点を広げるそうだ。お気に入りの場所を求め、どこにでも住処をつくり楽しく暮らす。故郷に憧れを抱く息子ではあったが、私には息子が故郷に匹敵するような骨を埋める場所を求めているようには見えなかった。息子は帰ってくるとよく寝ている。「実家に帰ると怠けてしまう」と慌てて長野の家に戻ることもあった。

ピンボールの傾斜した盤面を球が元気よく跳ね回って教えてくれる。
「故郷がないことを嘆いている息子にも、実は故郷はあるのだ」、と。
それは生まれ育った場所ではなく、「家族」がいる場所。帰る場所があるから息子は安心してどこへでも行ける。息子はまだそれに気付いていない。息子はいつか住むために月の土地1エーカー(約1200坪)を購入している。息子はきっと月にも行くだろう。そして、「ただいま~」と家族の元に帰り、ぐぅぐぅ寝る姿を想像している。

3 .いくつになっても安全基地はやっぱり親元
自然豊かな小さな島を故郷に持つ私は、島を出るまでは故郷がいいものだなんて思ったことはなかった。それが離れれば離れるほど故郷が美化されていく。しかし、そんな故郷もまた「どこでも住めるとしたら」の候補地にあがってはこない。それはなぜか。そんなとんちクイズのような問いにも、ピンボールの球が弾けて冴えに冴えた私の頭は即座に答えを出した。
それは、「故郷は住む場所ではなく、帰る場所だからだよ」、と。

確かに、大人になってからの私も、何か嫌なことや問題が生じるたびに「ちょっと帰ろうかな」という思考になる。若い頃は友人に相談していたことも、年を重ねるごとに悩みも複雑になりなかなか話せなくなってきた。いつの間にか疎遠になった友人もいる。故郷に帰っても解決しないのはわかっているが、帰れば変わらず迎えてくれる親がいて、とりあえず心を落ち着かせることはできると思うのだ。

もし、故郷の地に父も母もいなかったとしても、私はそこに帰るだろうか、と考えると、またピンボールの球が的に直撃する。いや、私は故郷の地に帰りたいのではなく、父と母の元に帰ろうとしているのだ。父と母が元気でいてくれるから、いつでも必ず私を迎えてくれるから、だから私は思うままに自分の人生を生きることができる。外の世界で知り合う人と交流し、時を共有することで、人として学び、成長していくことができる。

小さな子どもは親を安全基地として探索行動を行い、徐々に自立していくというが、子どもにとっての「安全基地」は永遠に存在しているのだと思う。この「永遠」は文字通りの「永遠」。いつか父や母がこの世を去る時がきても、その存在は永遠に私の故郷として生き続け、私を癒し続けてくれると確信している。


***

noteの端っこのバナーで見つけた「どこでも住めるとしたら」という、一見、私の人生とは何の関係ももたないように思えた問いが、実は私の人生を支えている核を見つけ出すピンボールマシーンに投入されるコインだった。

ピンボールで高得点を輩出してご満悦の私が出した「どこでも住めるとしたら」の問いの答えは「どこにでも住む」だ。

帰る場所があり、迎える子どもたちがいれば、どこに住んでもそこが「都」になる。私はきっと、これまでそうであったように、吹く風に身を任せて気ままに住む場所を決めるだろう。どこに住もうと、私の帰る場所(親)を見守り、迎える場所(我が身)を清らかにに保つ(心身の健康を保つ)、そうすることが、私と私の「家族」のよりよい暮らしに繋がるはずだから。

「どこでも住めるとしたら」という問いにふさわしい回答はもっと壮大で夢のある暮らしなのかもしれない。けれど私は、あえてこの答えを選んだ。なぜなら、「どこでも住む」ことができる世の中ほど幸福なことはないからだ。この地球上には、こんな小さな願いでさえ叶えられない場所がある。親子間に形成される安全基地が、災害や戦争、政治によって奪われているのを見聞きするたび胸が痛む。

地球上に存在するすべての親子が築く安全基地が、脅威に晒されることなく常に安全である世の中でありますように。そしてどこに住もうか悩んでしまうほど、世界中が安心と平和に包まれますように。

最後までお読みいただきありがとうございます😊 他の記事も読んでいただけると嬉しいです。サン=テグジュペリの言葉を拝借するなら、作品の中にありのままの私がいます。それを探してほしいなと思います。 いただいたサポートはnote街に還元していきます。