政治への関心、その始まりから現在に至るまで。

おはようございます。昨日、安倍晋三元内閣総理大臣が演説中に銃撃をうけ逝去されました。心よりお悔やみ申し上げます。

前回の記事でお伝えした、私自身の政治と向き合うきっかけや現在に至るまでの内容について、昨日書く予定でしたが、安倍元総理の銃撃事件で気持ちが乱れたこともあり投稿は見送りました。

一夜明け、気落ちしてばかりもいられないと思い、今回の投稿に臨んだ次第です。

それでは本題に移ります。

私が政治に大きく関心を持つようになったのは2008年、当時2ちゃんねるのまとめサイトをよくみていたのですが、その中でやけにざわついてる内容が見受けられ、確認して知ったのが国籍法改正問題でした。

ニコニコ動画のチャンネル桜の動画だったでしょうか、コメントとともに改正案への危険性が訴えられていました。しかし、テレビや新聞などの報道においては注目されておらず、その違和感とともに、なぜ取り上げられないのかという疑問も芽生えました。かなり恐怖心があったのを覚えています。政治への関心とともに、マスコミへの不信感も募った瞬間でもありました。

当時は自民党政権で麻生内閣。当時の麻生太郎総理は漫画好きというイメージもあって印象は悪くなく、そうした中での出来事ということもあってショックもなくはなかったのですが、それ以上にショックだったのが国籍法改正問題の流れで知った民主党の危険性でした。

民主党もさほどイメージが悪いということなかったのですが、民主党について調べだすと、外国人参政権などの危険そうな内容を推進していることがわかりました。むしろ当時批判的にマスコミから取り上げられていた自民党の方がまともそうであることもインプットしました。同時に第1次安倍内閣における安倍晋三総理の功績も知った次第です。国籍法改正問題の空気を直感的にヤバイと感じていた私にとって、民主党のこうした危険性を伝えるネットの内容もかなり刺激的かつ衝撃的で、このままでは日本は大変な事になるのではないか、そんな危機感を募らせるようになりました。

そしてむかえた2009年の衆院選。政権交代の機運が高まる中、まだ選挙権がなかった私には民主党政権が誕生しない事を祈ることしかできませんでした。しかし、結果はご存じの通り。絶望に近い心境でしたね…。

鳩山政権誕生後は普天間基地移設問題や天皇陛下の政治利用、宮崎の口蹄疫など、それはもうストレスの連続でした。

また、まともな政治家と思っていた中川昭一さんの逝去な大きな衝撃で、この頃から本格的に行動。掲示板やSNSでの発信を開始した他、頑張れ日本!全国行動委員会などの保守系のデモ活動や西村真悟さんや故・三宅博さんらによる講演会にも頻繁に足を運ぶようになりました。

国政選挙に参加できたのは2010年の参院選。国籍法改正問題をきっかけとして選挙権を得る前から絶対選挙では大事な一票を投じようと思ってたので、すでにこの頃から投票に行ってます。今でも欠かさず投票はしており、選挙権を得てから棄権したことは一度もありません。2010年当時ははなんとか自民党に政権を戻さなければならないという一心で、自民党に託しました。たちあがれ日本国民新党にも親和性は感じつつも、そちらにまで票を回そうとする余裕はありませんでした。それくらい民主党政権は嫌いだったのです。またみんなの党にも警戒心がありました。政権交代のような風を起こしかねない感じがあり、今の日本に自民党以外が政権を担う余裕はないと思いからでした。

2010年は尖閣諸島中国漁船衝突事件もあり、鳩山政権の後に誕生した菅直人政権の対応には怒りを覚えるばかりでした。

2011年には東日本大震災が起き、原発を始めとした政権の対応はまさに悪夢といったところでした。統一地方選挙でもやはり自民党を支持しました。この頃には大阪維新の会減税日本が台頭してきましたが、やはりみんなの党に近い警戒心がありました。

その後野田政権が誕生しました。野田さんは民主党ではまだまともな方と思っていたのですが、党内人事などでその淡い期待は打ち砕かれた感じです。

2012年、消費税増税の方向に転換するなど、野田政権にはとにかく腹が立ちましたが、当時の谷垣総裁がに不出馬に追い込まれるなど、自民党に対しても強く苛立ちを覚えました。しかし、安倍さんが総裁に復帰、解散総選挙も決まり、いよいよ民主党政権を終わらせるチャンスがきたと希望を見出しました。
そんな中、国民新党は分裂、たちあがれ日本もなくなり、日本維新の会が登場など、もう完全に自民しかないと強く決意しました。
そして衆院選。自民は大勝をおさめ、これでようやく日本が良い方向になる、そんな気持ちもあって喜びの絶頂でした。この年にツイッターも始めました。

続く2013年の参院選も自民党が勝利。政権奪還後から公明党という存在は気になりつつも、まだまだ自民党に傾倒し熱狂が続いていました。安倍総理による靖国神社参拝も嬉しかったですね。

2014年に入ると自民党一辺倒の気持ちにも変化が表れはじめます。そのきっかけの1つは消費税増税でした。安倍政権は増税しないと思ってたので正直ショックでした。それでも財務省が悪いという認識で、当時の安倍総理もよく頑張ってくれたのだろうと、そこまで批判はしませんでした。もう1つは日本維新の会が分党してできた次世代の党の存在でした。きっかけとしてより大きかったのはこちらの方です。個人的には親和性の高い政党でした。国籍法改正問題以来自民以外で圧倒的信頼を寄せていた数少ない政治家・平沼赳夫衆議院議員が党首とあって、なんとしても伸びてほしいという気持ちでした。
しかし、結党ほどなく解散総選挙が決まります。情勢は厳しいとの見方が強く、この選挙で初めて自民党以外の政党に投票することになりました。次世代を守らなければならないという判断によるものです。また、自民の足を引っ張っていると感じた公明にとって代わってほしいという気持ちもありました。
結果、自民はなんとか勝利をおさめたものの、次世代は惨敗。期待していた若手が落選し、悔しい気持ちでいっぱいでした。自民が勝ったのはせめてもの救いではあったのですが、仲間と思ってた自民党支持者の中から次世代に対するネガキャンが起きたのは大変残念でした。

2015年に入ると、追い打ちをかけるように慰安婦問題における日韓合意が決まります。スタンス的に受け入れがたかったのですが、多くの擁護もあり仕方ないのかと思って歯を食いしばりました。

2016年に入り、自民支持への気持ちが激しく揺らぎます。地元京都の宮崎謙介衆議院議員が所謂ゲス不倫で議員辞職、西田昌司参議院議員による京都3区補欠選挙やヘイトスピーチ抑止法での醜態…。両者ともスタンス的にも申し分なく熱烈に支持していただけにどれほど失望したかわかりません。
だからといって野党に私の受け皿は正直ありませんでした。というのも支持して再起を望んでいた次世代の党が、2015年に日本のこころを大切にする党などという長ったらしい党名に変更して熱が冷めてしまったのです。代表の中山恭子参議院議員と夫の中山成彬元衆議院議員の身勝手さには本当にガッカリしました。2015年の京都3区補選や2016年の参院選比例では日本のこころを応援していましたが、モヤモヤしながらの選挙でした。
そんな中で次世代の党名変更に真っ向から反対してくれていた和田政宗参議院議員は当時絶大な信頼と期待を寄せていました。和田さんのためにも日本のこころ党勢拡大を頑張らなければならないと、自分を奮い立たせることができた大きな存在です。
また小池百合子都知事の誕生には一筋の光が差し込みました。表向きはややニュートラルに構えてましたが、これは地域政党結成からの国政進出があるだろうと内心ワクワクしていました(あまりそういう憶測を出すと次世代のように潰されたり警戒されたりしそうで抑えていました)。

2017年に入ると和田さんが自民党に入ります。自民党への心は離れつつあったのと、和田さんには支持できる新党を立ちあげてほしいという思いすらあったので寂しい気持ちもありましたが、党名変更問題で奮闘してくれたこの恩は参院選で必ず返すと誓いました。
一方、北神圭朗衆議院議員との出会いや都民ファーストの会の誕生・躍進など、それまでの2年間よりは充実していました。小池新党も現実味を帯び、期待感が高まり続ける中、解散総選挙が決まりました。
そして希望の党が結党!次世代を党名変更までして日本のこころを私物化した中山夫妻の参加には呆れましたが、希望に可能性をかけたいと強く思いました。民進党から親和性の低い候補者がやってきたのは残念でしたが、党の保守派議員で支持できる人もいたのど、前原誠司衆議院議員の決断はそこまで悪いものとは考えてませんでした。
衆院選で希望の躍進に期待しましたが、思わぬ失速で大勝には至りませんでした。そして案の定、次世代のときのようなネガキャンが保守の側から起きました。この人たちとなかよしこよしはもう無理だと確信しました。私がツイッターでよくネット保守と表現している人たちが当てはまります。
その後希望の共同代表選となります。このときは玉木雄一郎衆議院議員が推薦人の質もいいイメージだったので、希望の党の再生にはこの人かと思い応援しました。
無事玉木議員が選ばれましたが、小池都知事が代表を辞任。どうなるのかと玉木体制を見守っていましたが、民進党との統一会派の動きなど雲行きが怪しくなり、2018年、とうとう分党となります。玉木代表には裏切られたような思いがありました。

2018年の希望分党で、国民民主党と松沢成文参議院議員らによる新・希望の党が誕生します。この時点では新・希望との親和性が高いと思ってました。なのでそちらに傾いていたのですが、前年の衆院選で応援した希望の候補者だった方から国民民主党サポーターの誘いを受けます。正直あまり乗り気ではなかったのですが、党員とは違い、サポーターなら活動に制限はないということでサポーターに登録をしました。
当初期待感はなかったのですが、玉木代表の党首討論などを機に、頑張ってはいるのかなとそれまでの抵抗も少しずつ薄れてきてはきました。いい議員さんも見受けられたので。国民民主党代表選では、サポーターとして玉木代表の再選を支持することとしました。なお当時はすでに自民党への熱はかなり冷めていたと思います。この年はネットで名乗ってきた“平生晋一”の名前を改め、“ライジングおむかいサン”と名乗るようになりました。平生晋一については、“平”沼赳夫、麻“生”太郎、安倍“晋”三、中川昭“一”が由来でした。

2019年の統一地方選は国民民主党の公認候補が地元から出ていたので応援しました。この頃になると、国民民主党を支持するフォロワーでツイッターで増え始めていました。
この年は参院選もあり、斎藤アレックスさんが京都府選挙区からの出馬に向けて準備を進めていましたが、後出しで擁立を決めた立憲民主党との競合を避けるために降りることとなりました。このとき改選の一人だった西田参議院議員は前述のこともあり論外で、立憲民主党は2017年の衆院選で希望の党からの排除や公認を蹴った面々の集まりということもあって支持には抵抗もあり、増山裕子さんの応援は躊躇しました。斎藤さんが出ていれたら…と本当に残念でした。比例は前述の約束通り、和田参議院議員への恩返しに尽力しました。
そしてこの年の冬、1つの転機が訪れます。玉木代表を呼んでのオフ会に誘われたのです。ツイッターの国民民主党に期待を寄せるアカウントの中の人を中心とした有志の集まりで、玉木代表ともご挨拶、名刺交換もしていただきました。オフ会は盛り上がり、国民民主党支持者のあたたかさにも触れました。これだけいい支持者に恵まれているなら、国民民主ってかなりのびしろあるんじゃないかと思えるほどでした。合流論もありましたが、それは実にもったいないことだと強く実感しました。

とはいえ、苦手な議員もいたのは事実です。提案型路線の足を引っ張るような議員や合流を推進する議員がいました。そのあたりはモヤモヤしながらも可能性のある政党として伸びてほしい心境でした。
しかし、合流の方向は既定路線かのように外堀も内堀は埋められていくばかり…。また期待する政党がなくなってしまうのかと気が滅入りました。が、ついに奇跡は起きました。玉木代表から分党に関する緊急会見が行われたのです。そして…

2020年9月にシン・国民民主党が結党されました。私の願いが通じたような感覚でした。結党メンバーも腹を括ったのだと痛感しました。私もそれに応えたいと感じ、人生で初めて国政政党党員となる決断をしました。

もちろん現実は厳しく茨の道でした。結党後も支持率の低さに喘ぎ、希望の党のような勢いもないため、シン・国民民主党として迎える解散総選挙には危機感がありました。都議選も厳しい結果でした。

2021年、衆院選が決まりました。絶対にこの党を失ってはならない、そんな思いで選挙の手伝いなどをしました。
存続を祈るように迎えた投開票日…予想を超える躍進!またしても奇跡は起きました。あれから半年以上経った今、シン・国民民主党として初めての参院選を迎えています。

もちろん今も党員として支持しています。衆院選に続く躍進をしてほしいと強く願いながら参院選に臨んでいるところです。

本日、選挙戦最終日です。安倍元総理の訃報で、思いがけない状況になりましたが、気持ちを切り替え、大切な党のために今日という日を乗り切る所存です。
明日の投票日、国民民主党の朗報がきけることを願ってやみません。

以上、約5600文字。いかがだったでしょうか。
記憶を頼りにひたすら書いたので読みづらい部分もあるかとは思いますが、誰かの何かのきっかけになれば幸いです。

今後もさまざまなテーマで記事を投稿していきます。それではこれから残るポスティングを終わらせてまいります!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?