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生活の定位を決める。

連休の少し前から部屋を片付けているが、気を付けなければいけないのは、ひょいと置いた大切なものを忘れて、どこに置いたかパニックになってしまうことだ。

昨日も2023年の手帳がどこかへ消えて慌てた。2時間ほど探した。捨ててしまったのかなと悲しくなったが、積み上げた書籍の中盤あたりの地層に埋もれていた。なあんだ、こんなところにあったのか。安堵した。

そもそも部屋に本が多すぎる。まさか大切な手帳を本の中に埋めたとは思っていなかったので、完全な盲点だった。古い書類の段ボールまでひっくり返して、まったく見当違いの場所を冷汗をかきながら探していた。

男性は、平面的な認識能力が低いと言われることがある。だから冷蔵庫にしまったチーズを探せない。「おーい、あれはどこいった?」と妻に何でも聞いて嫌がられる。一方で女性は空間的な認識能力が苦手。地図が読めなくて道に迷う。いわゆる男性脳と女性脳の話である。なんとなく分かると思っていたのだが、どうやら科学的根拠はないようだ。そうなんだ。

しゃべりながら何かをするようなマルチタスク、並行処理が苦手なことも男性の特徴といわれていた。これも一概にそうとはいえないのかもしれないが、自分に関していえばその傾向が強い。

ぼんやり考えごとをしながら何かをすると、あれ!?と記憶がごっそり欠落していることがある。いつの間にか今日飲むはずの薬がなくなっていたり、ここにあるはずの何かが別の場所に移動していたり。

ひょっとして自分はタイムトラベラーか?あるいはサイコキネシスか?と思う。知らないうちに時間を跳躍しちゃったか、無意識のうちに物体を念力で動かしてしまったのか。しかし、過去に戻ることもできないし、もとの場所に移動できない超能力者であれば、まったく使いものにならない。

ごくたまに真剣に困るのが、携帯電話と眼鏡の置き場所を忘れてしまうことだ。ぼんやり考えごとをしながら置いて、気がつけば、ない。

携帯電話なら、別の電話から自分の携帯電話にコールして発見できる。馬鹿みたいだけれど、ぶーぶーと振動している場所を探して、こんなところにあったのか!おかえり!とみつけられる。何かの下になって見えないこともあるが、ちょっとしたかくれんぼを楽しめる。しかし、眼鏡はそうはいかない。眼鏡に電話をかけて、居場所を発見することはできない。

おーいどこだ?と声をかけたら、そういうおまえはどこだ?と応えてくれる眼鏡がほしい。こだまでしょうか、いいえ誰でも(by 金子みすゞ)。最新テクノロジを駆使したデバイスなら、対話型のコミュニケーション機能を実装した、なんとかグラスができそうだ。ドラえもんに頼まなくても。

といっても、いまのところは、そんな先端デバイスを持っていない。したがって、置き忘れを防ぐ方法のひとつとしては、まず「はい、いま眼鏡をサイドテーブルに置きました」と脳内で記憶にアンカーを打つとよさそうだ。手に触れるものすべてを言語化するのは面倒くさいが、携帯電話や眼鏡など、大切なものは、指差し確認&言語化による脳内メモ化を推奨したい。

さらに効果的な対策は、置き場所つまり定位置を決めてしまうことだ。

携帯電話と眼鏡はサイドテーブルの左端に置くと決める。財布はその下だ。さらに文房具用のトレイを用意して、ボールペン類は使ったらそこに必ずしまう。何があろうと、その位置を変えてはいけません。例外的な場所に置くときだけ「はい、いま脱いだ服の上に眼鏡を置きましたよ。記憶、記憶」のように脳内で言語化して記憶する。

思えば田舎の母は、高齢になってから自宅の片付けを日課にしていたのだが、片付けるたびに置き場所を変えるので、ついに何をどこにしまったか忘れてしまうようになった。段ボール箱のなかから、大切な書類やチラシが、いっしょくたになって発見されるようになった。

その後、帰省していないにも関わらず「あんたアレを持っていかなかったかね?」と電話をかけて息子を疑うようになり、心外な思いをした。思えばそれが認知症の始まりであった。そんな母のことを思うと、今後の自分が不安になる。

そうやって、すべてを忘却するのが年を取ることなのかもしれないが、できれば他人を疑う老人にはなりたくない。なくしたものには執着せず、穏やかに笑っている老人になりたい。したがって、なるべくモノを減らしつつ、大切なものの定位置を決めたいと考えている。

ところで、定位置というのは空間的なものに限らない。時間の定位置を決めることを「習慣」というのではないか。

いま自分には、いくつか朝のルーティーンがある。たとえば目が覚めたら、ストレッチをして、水を飲み、Xに今日の気温を記録して、語学のアプリで少しだけ勉強をする。

哲学者のカントのように、きっちり同じ時間に散歩をするような律儀な生活はできないが、習慣化することで朝の時間を穏やかに過ごせる。いわば「日々の素振り」のようなものだ。ウォーミングアップをしておいて、さあ!一日に取りかかりますか、と本日の重要な課題に臨む。

とはいっても、根はいい加減かつカオスな人間なので、きっちり習慣化できない。できないのだが、空間にしても時間にしても、定位置を決めると落ち着く。全部を一気に完璧にやろうとせずに、できるところから着手および定着化している。いまのところ語学アプリは、191日続いている。継続は力なり。ローマは一日にしてならず。塵も積もれば大掃除。

ちなみに音楽でいうと、ステレオで左右のどちらに配置するかを定位という。だいたいヴォーカルは中央に定位する。趣味の音楽制作のDTMでは、ドラムのタムの定位にこだわるほうだ。サラウンド音源ではスピーカーの外から音が聴こえてくるが、そんな立体的な定位が好きだった。

日常生活においても、これは左に配置、あれは右に配置、そいつは中央に配置と定位を決めておくと、生活に拡がりと安定感が生まれるのではないか。もちろん定位置を決めてから、自由に動かすのも面白い。

5月後半、いろいろなことが大きく動きそうなのだが、変化のなかから定着、定位できるものを残していきたいと考えている。

2024.05.12 Bw



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