見出し画像

グリーフ哲学をー自責の念

夫は、ある日、自らこの世を去ってしまいました。あまりにも突然のことで、青天の霹靂とはまさにこのことでした。

気づかなかった自分を責め、そして自責の念は自分の在り様にまで及び、当時の私は完全に打ちのめされてしまいました。

ああしておけば、今はこうだったかもしれない、そうしたら、こうなっていたかもしれない。わたしの現在は「今はこうだったかもしれない」という思いとのギャップでしか感じられない空しいものとなりました。

わたしたちは、過去と現在そして未来へ通ずる一本の時間軸があって、自己同一性を保っています。現在の自分と昨日けんかした自分は違うと思っていたら、自己が維持できなくなります。けんかしたから、現在の自分が明日仲直りしようとか相手の様子を見ようとか考えることで、未来が開けていく。現在とは、過去と先取りするかたちでの未来があってこそ成立するものなのです。

つまり、自己同一性とは、現在から一本の軸につながる過去、未来という時間的な差異がなければ、保てないものなのです。

こうしておけば、という空しい過去と、こうなっていたかもしれないという空しい未来に挟まれた現在は、やはり空しいものにしかならない。滞った現在。ただ、それでもかろうじて自己が維持されているのは、空しいけれども、わたしの現在と、もしかしたらあったであろう架空の現在とのギャップという差異によるものだと思います。

当時は自責の念に押しつぶされていた自分がいましたが、皮肉なことに、自責の念が自分を支えていたのだと、今さらながら思うのです。自責の念とは否定性ですが、その否定性によって自己は動かさていると言えるのかもしれません。

「意識のなかには、自我と自我の対象となる実体との間に不等な 関係がある。この不等性が両者の区別であり、否定的なもの一般である。この否定的なものは両者の欠陥であるとみなされるかもしれないが、実際は両者の眼目である。つまり、両者を動かすものである。」
 (G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』、樫山欽四郎訳、平凡社)

滞った現在。でも、そういうときに、否定性はあらわれるのです。でもこの否定性を、単に自己を否定するものとして捉えてしまうと、ちがう方向に行ってしまいます。

自責の念とは、自分は本来そういう人間ではないのにそうしてしまった、できなかった自分はできたはずなのにしなかったという後悔の念からくるものではないでしょうか。本当のわたしはそうではないのにそうしてしまったと、心の底では思っているのではないでしょうか。

いえいえ、それもわたしなのです。それも含めて全体のわたしなのです。否定性によって、自分の全体が露わになったということです。あのときこうできなかったのではなく、できなかったのも自分なんです。否定性があったからこそ、気づかされた自分なのです。

そういうことがあったから、できなかった自分が在ることにに気づいた。でも、そういうできなかった自分を受け入れてあげてほしい。

できる自分も自分、できない自分も自分。それは両方とも自分。できるできないという区別を自分でつけているだけ。それよりも、自分の全体を受け入れること。否定性とは、両方の自分が在るのだということに気づかせてくれるものなのです。でも、できない自分に気づくと、それは自責の念に通じてしまう。

苦しいのは、できるできないで分けてしまったから。できるできないではなく、それが自分なのだと思うしかない。できるできないにとらわれなくなったら、自己はひとつの境位―無―に達します。でも、またすぐに次の否定性が生じて、別のできるできないが出てくる。人間である限り、区別をつけてしまう。なぜなら、存在するということは、分節化されたものであることを意味するのだから。

ですから、自責の念とは薄らいではくるものの、なかなか消えるものではありません。和らぎながらも、一生続くものだと思います。人はそうそう無の境地には至れない。だけれども、実は否定性によって自分は動かされてもいるんです。否定性がなければ、無の境地に至る道筋すら見つけられない。

だから、自分を責めずに、むしろそれも自分なのだと、そういう自分を受け入れてほしい。

年月を経てこういう自分を受け入れていくなかで、ある日ふとよぎった自責の念に「そんなふうにできないできないって、あなたのせいにされたら、ここっちが重たいよ。」という夫の声を聴いたのでした。








 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?