『2020』オープンスタジオ観劇レポート|蜂巣もも
滋賀県を訪れたのは、かなり久しぶりだった。
両親が滋賀県の各所に配達する業務に、幼き私は車の助手席に乗ってついてまわった。
地名も、風景もどことなく懐かしく、滋賀県は二番目の故郷のような感覚がある。湖西線で京都駅から各駅停車で揺られ、琵琶湖を望む。
琵琶湖は暑いときは熱を吸い周囲を涼しくさせ、寒いときは夏に溜めた熱を吐き出して暖かくするそうだ、と母から聞いたことがある。酷暑と極寒の京都に住んでいた私はうらやましく思った。
国道が見える。
日本各地にあるチェーン店が並ぶ、簡素で、雑多なイメージ。しばらく進むとそれとは異なる、昔の町並みが残る志賀駅が現れた。
きれいな町だった。町内には掃除の行き届いたお地蔵様が点々とあり、家々も古くて凛としている。地域や親戚付き合いの力が強いのだろう。ここに住むとしたら生活はどんなふうだろう。このコミュニティで必要とされる振舞いが、きっとあるのだろうな。
持ってきたキャリーバッグの扱いに苦戦しながら、傾斜角度のきつい坂道を延々登り、やっと芸術創造室ハイセンにたどり着いた。道は綺麗に舗装されていたが、坂がすごく急で、山を軽く登った感覚だった。
着くと座組の方々が優しく迎え入れてくれた。
みんな、ふわふわ~としていた。ハイセン自体が近所と不思議な馴染み方(ちょっと浮いてる)なのもあってか、みんなの様子も不思議に浮いてる。私はこういった場であたたかく受け入れられることが結構好きだし、演劇や美術のコミュニティにそのような居場所を求めている節がある。
『2020』が掲げるテーマは上演を目的にしないプロジェクト。
一昨年の「2020年に『2020』(作:西尾佳織)を飽きるほど読む 」というワークショップタイトルも惹かれるところがある。飽きるほどに読み、人と丁度いい距離で付き合うという印象がある。楽しそう。名目がありながら、遊びに行く感覚。
2組の創作グループがそれぞれ違う場所から発表する構成で、1組目は5分ほどの指定箇所を一人芝居でトライしていた。
2組目は作品にまつわるであろう複数のアイデアを、共同で順々に実践していた。
前者は向き合おうとしていること、ものが、分かりやすく、個々の向き合う様も印象深く、やりたいことがいくつもあるけどなんとか整理しながらやってみている感覚を受けた。発表に向けて用意されたアイデアのシンプルさを感じる。
後者は向き合う姿に愚直さを感じつつも、見方が難しかった。やっていることの中で明確に見た/記憶出来たものと、掴めなかったものが混ざり合っていた。見えたものも、それが何なのか分からないくらいの淡い印象がある。ただ全てがやりたかったことなのだと、参加者の姿勢から分かる。
もしかすると、実践した側の方が豊かに何かを感じているかもしれない。
2つの組を合わせて考えたときに、今回の発表ではまだ、観客の「見方」はない地点にあって、それが良さでもあり、どこか私自身が繋がれなかった気持ちにもなった。
自分も作り手として通過したことのある、何かを定めていない途中、精錬させていない状態。楽しくも見られるし、スッと冷静になったら醒めそうな瞬間だった。醒めると起こる「なるべくポジティブに見なきゃ」という感覚は健康的ではなく、しがらみになってしまう。その間を見ながらうろうろしていた。
実行されたことや、身内的に普段見たことない西尾さんや和田さんを楽しみつつ、最終的になんだか印象的で思い出すことは、座組参加者同士が会話している時や出迎えてくれたときの表情だった。
この場に居ることをどうやって主体的に実践しているのか、気を使って話している。集団に歩みを合わせようとするか、それともあえて自然に振舞っているか。
それぞれのステージも少しずつ違っていた。
全員ではまだまだ喋り尽くせていない、硬さ、若さみたいなものも感じた。
集合して話すと分からない、一人一人が何を見て、何をしようとしているのか、もう少し見れたら、私と場はもう少し繋がったかもしれない。
その空気感が妙に頭に残りつつ、ハイセンを後にし、京都駅まで電車に揺られながら帰った。
帰り道に見た野焼き
2022.4.23 蜂巣もも