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『だからずうっとここにいて』第三話(最終話)


 はじめて「本物の」ミートスパゲッティを食べたのは小学校の給食だった。

 キラキラ光るオレンジ色で、ひき肉と玉ねぎとナスも入ってた。それが白い麺にかかってて、緑色のパセリも添えられてた。

 それが「ミートスパゲッティ」だって分かったのは献立表を読んだからで、それがなかったらおれはその食べものの名前が分からなかったと思う。

 小学生のおれが「ミートスパゲッティ」だと認識してたのはそれじゃなかった。雑に切った豚肉とキャベツを炒めたものに桜でんぶがかかったやつ。それが伸びきった麺にかかってる料理が、おれが教え込まれた「ミートスパゲッティ」だった。

「あたらしい」

 ネネちゃんはテーブルの向かい側で、いつもの真剣な目でおれを見てる。

「桜でんぶが意味不明で、とくにザンシン」

 ネネちゃんはいつも真剣だ。彼女の好きなところはそれこそ百個以上あるけど、その真剣な態度はベストファイブに入ると思う。ネネちゃんは何かを茶化したり、適当にあしらったりは絶対しない。

「そのとき思ったんだよね。これはダメだ、おれの家は普通じゃないってさ」

 おれは今、まさにミートスパゲッティを食べてる。料理の天才、ネネちゃんの手作りだ。まじで失神するくらいに美味い。

「でもお父さんは一生懸命作ったんだよね。そーいちろーに喜んでほしくて」
「だね。だけど致命的に才能がなかった」
「覚えてる? お母さんのこと」

 ネネちゃん作のミートスパゲッティは、甘いのに甘すぎない。塩気が上品な甘さを引き立てて、歯応えのあるマッシュルームが入ってて、そのアクセントがたまらない。

「断片的にね。でも最後の記憶が四歳だからなぁ」
「二人目のお母さんだったなんて知らなかったよ」

 おれは今日、はじめてネネちゃんにこの話をした。ネネちゃんはおれの今の母親に会ってて、当たり前だけどその人が二人目だなんて思いもしなかった。

「ネネちゃん、パスタ屋さんやろう。このミートソース絶品すぎ」
「飲食店なんてできないってば。でもすごいね、そーいちろー。ふたり目のお母さんもめちゃくちゃステキな人だよね。なんかそーいちろーに似てるな、なんて思っちゃったんだけど、そっか、血はつながってないんだね」

 ネネちゃんが淹れてくれたアイスミントティーを飲む。こっちも絶品だ。ネネちゃんはおれと違って何でもできる。

「そうそう。おれが九歳のときに母親になってくれたんだよね。あの人が来てくれなかったら、今ごろおれたちどうなってたことか」
「最初からだいすきだった? 今のお母さんのこと」
「そうだなぁ」

 こんな話をするのはネネちゃんが初めてだ。ネネちゃんはいつもフェアで、何を言っても動じなくて、だからどんなことだって話せる。

「大好きっていうか、もう頼みこむしかなかったっていうか」
「頼みこむ?」
「今の母さんに、母さんになってくれって頼んだのはおれなんだよ」

 あれは小学生のときだった。おれは今の母さん......当時は百合さんって呼んでた彼女に、どうかうちの父さんと結婚してくれって頼みに行った。

「百合さん......今の母さんは昔スナックのママさんでさ。父さんはそこの常連だったんだよ」
「で、そーいちろーが頼んだの? お母さんになってって?」
「明け方に店の裏で待ってたんだよ。で、深々と頭を下げてお願いしたんだよね」
「えぇぇぇ?」

 ネネちゃんが大きな目を見開く。そうだよな、えぇぇぇ、だよな。今まで誰かに話したことがなかったからあんまり深く考えなかったけど、改めて客観的にみてみるとなかなか事案な感じだ。

「明け方って何時ころ?」
「四時か五時か......夏だったから明るくなりかけてた」
「そのときそーいちろーは何歳よ?」
「八歳」

 ひぇぇぇぇ。ネネちゃんは言って、それから笑う。ドン引いたりしない。おれはネネちゃんが笑うのが好きだ。カメラの前とかじゃなくて、こういう何でもないときに。

「よく通報されなかったね」
「ホントだよな。児相の案件だよなこれ」
「お母さんはどう答えたの? あっさりいいよって?」
「いや、それがちょっと複雑でさ」
「そもそもすでにちょっどころじゃない複雑さだと思うけど」

 その通りだ。あれはなかなかの大事件だった。あのとき百合さんは目をぱちくりさせて、まずおれに言ったんだ。

『そうしたいけど、私、いまクソ男と結婚してるのよね』

          *

 おれはタナトフォビアってやつだ。死恐怖症。

 これは十代になってからネットで偶然知った。そりゃあ死ぬのは誰でも怖いだろ、とかつっ込むヤツは正常だ。タナトフォビアはそういうんじゃない。ガチなやつだ。ガチな恐怖症。そしてこれは、おれが唯一ネネちゃんに話してないことだ。

 おれは死が怖い。誰かが死ぬこと、自分が死ぬこと、死ぬかもしれないと思うこと、それによって大きな穴が空いてしまうこと。

 ネネちゃんといるときもいないときも、おれはいつでも意識のの数パーセントで死を恐れてる。おれや彼女に何かあったらどうしようなんて想像すると発狂しそうになる。

 ネネちゃんは若くて健康でおれよりずっとタフて賢くて、おれもまぁ若くて健康で死なんてものとは真逆にいるのに、だ。

 おれは乏しい理性をかき集めてそれを表に出さないようにしてるし、あたりまえだけど束縛なんてしない。ネネちゃんがどこに行っても行ってらっしゃい、で片付けるし、たとえば頭痛だとか生理痛だとかそういう普通の体調不良にも普通に対応してがんばってる。

 だけど本当は怖くて仕方ない。おれは死がどんんなものかを知ってて、いまだにそれを乗り越えてないんだ。

          *

「今度ね、ついに紹介しようと思う」

 深夜の一時。ネネちゃんとおれは恒例の十五分通話をする。

「まさかラスボス?」
「そう、ラスボス。覚悟しといてねヤバいから」

 ネネちゃんのお母さんのことだ。おれまだ会ったことのない、ネネちゃんの最大の敵。

「了解。走りやすいスニーカーで行く」
「逃げる気マンマンかい」

 ネネちゃんが通話口で笑ってる。おれはバーテンのバイトから帰ってきたばかりで、ネネちゃんはこれから市場のバイトに出勤する。

 市場だぞ? 徒歩圏にあるからちょうどいいの、とか言ってるけど、市場だぞ? お花の市場だよ、なんてサラッと言ってるけど市場だぞ? 深夜だぞ? 超絶肉体労働だぞ? ネネちゃんの前職はモデルだぞ? つくづく彼女はすごすぎる。

「今度、お休みが合うときにつきあってくれる?」
「もちろんだよ。スーツとか着た方がいい?」
「それより武器とか持ってった方がいい」

 真剣な声で言うからつられておれも笑う。ネネちゃんのお母さんか。ウワサの「鬼ママ」。出てったパパのことを恨んで妖怪に変身した、とか説明されてるラスボス。

「やっぱりね、会ってほしいと思ったの。あの人も含めてあたしの人生だから。そーいちろーにキョウユウしてほしくて」
「もちろんもちろん。嬉しいよ」

 おれはいったいどうやってこんなステキな子を彼女にしたんだろう。すごいぞおれ。これで一生分の運を使い果たしてても悔いはない。

「ねぇそーいちろー」
「うん?」
「ありがとね」
「なにが?」
「あたしのこと認めてくれて」

 今すぐこんな通話を切って、ネネちゃんの家に駆けつけたい。市場なんて危険な場所に行かせないで、おれがずうっと見張ってたい。

 だけどもちろんそんなことはしないし言わない。おれは笑って、こちらこそありがとう、と答える。それからいつもみたいにまたね、って電話を切るんだ。

           *

 おれの母親は病気で死んだ。おれは四歳で、まだ子供すぎて細かいことは覚えてない。

 母さんがよく寝てるようになって父さんがおれの面倒を見始めて、ある日母さんが別の場所で暮らすようになって、それからいなくなった。シンプルにまとめるとおれの認識はそんな感じだった。

 おれはめちゃくちゃ泣いてた。母さんが他の場所で暮らす......今ならそれが入院だって分かるけどそれが本当にいやでいつも大泣きしてた。この世の終わりみたいに泣きまくって、だけどある日ピタッと泣かなくなった。

 父さんは逆にびっくりしておれを児童精神科医みたいなのに会わせたりいろいろしたけど、おれは特に異常なしの子どもだって診断された。幼いなりに状況に折り合いをつけたんだろうって思われたみたいだった。でも実は違う。

 おれは小さすぎて死ってものがなんなのか分からないはずだった。みんなそう思ってただろけどそれも違う。おれは四歳で、それをくっきりハッキリ理解したんだ。

 おれの母親はどこかに行ってしまう。本人の意思とは真逆に。おれがどんなに泣いても喚いてもそれは同じで、それはもう絶対に決まってるんだ。

 それならおれは耐えるしかないんだ。おれが泣いて喚くと母さんは悲しむし父さんは窮地に立たされる。それじゃ誰も救われない。

 だからおれは泣かないことにした。泣くのはずっとあとにしようと思った。たとえば大人になったときに、もう泣いても誰も慰めたり困ったりしなくなったときに、思いっきり泣こうと思った。子どものうちは耐えようと思った。

 こうやって客観的に考えると強くて賢い子だよな。おれの人間性と知性のピークは四歳あたりだったのかもしれないってマジで思う。

 だけどまぁ、物事はそう簡単にはいかなかった。

 ついに母さんが死んだとき、ぶっ壊れたのは父さんだった。おれがタナトフォビアになったのは、ぶっちゃけ父さんが原因だ。

          *

「今度さ、ネネちゃんの母親に会う」

 実家のテーブルで夕食をご馳走になりながら、おれは何でもない感じで報告してみた。奇しくも夕食はミートスパゲティだ。もちろん父さん作のアレじゃない。母さん作のマトモなのだ。

「そうなの? モヒカンとか革ジャンでは行かない方がいいかもね」
「モヒカンにしたことないし革ジャンも持ってないだろ」
「おれのスーツ貸そうか? 全部で八千円だった伝説の」
「どんな伝説だよ。スーツとして成り立ってるのかよそれ」
「どんなお母さんなのか知ってるの?」
「なんか個性的な人だって聞いてるけどね」

 ネネちゃんはお母さんの自殺未遂なんかの話をおれにしてくれた。タナトフォビアのおれは内心恐ろしくて仕方なかったけどなんとか普通に対応した。と思う。

「そうちゃんなら大丈夫よ。人に好かれることだけが特技なんだから」
「だけってなんだ」
「ギターもまぁまぁ上手いよな」
「まぁまぁね」
「私、そうちゃんの母親になれたことだけが自慢なのよ」

 母さんが普通のテンションでそんな話をぶっ込んでくるから、思わずちょっとスパゲティにむせた。

「覚えてる? あなたが私に母親になってって頼みにきたこと」
「偶然にもついこないだその話をした。ネネちゃんに」
「あれは衝撃だったわぁ。スクラッチで二十万円当てたとき以来ね」
「微妙な衝撃だな」

 あの日、おれは本気だった。

 このままじゃ父さんもいなくなると思った。怖くて怖くて八歳児なりにない知恵を絞った結果があの待ち伏せだった。

『百合さん!』

 おれは店の裏口で彼女が出てくるのを待ってた。パジャマはさすがにまずいと思って、学校の体操服姿だった。

『え、そうちゃん? 雅雪さんちの息子さんよね?』

 おれは何回か百合さんに会ってた。スナックでじゃない。ファミレスでだ。父さんは常連で、百合さんと友だちだったんだ。

『はい。立花奏一郎です。今日はお願いがあって待ってました』
『こんな時間にどうしたの? 雅雪さんは知ってるの?』

 百合さんは動揺してた。まさか明け方にスナックの外で体操服姿の八歳児が待ち伏せしてるとは思わなかっただろう。ちょっとしたホラーだ。

『父さんは知りません。勝手に抜け出してきました』
『まずいわよそれ。帰りましょう』
『帰る前に聞いてください。おれ、お願いがあって』

 おれはたぶん、ちょっと泣いてたと思う。大人になって冷静に思い出すと、可愛いと可哀想と怖いのちょうど真ん中な感じだ。

『百合さん、おれの父さんと結婚してください! 父さんを助けてあげてください!』

 おれは本気だった。このままじゃ父さんも死んじゃうと思ってた。

 父さんは死んだ母さんを愛しすぎてたんだ。

           *

 ネネちゃんの実家はお城だった。

 大袈裟じゃない。マジのまじの大真面目に。白亜の外壁にツタが絡まってて緑いっぱいの庭があるお城だった。

 日本中のだれでも名前くらいは聞いたことあるだろう高級住宅地。そこの一角にひときわメルヘンチックな豪邸があって、それがネネちゃんの育った家だった。

「まじかぁ」

 思わず本音がでた。ネネちゃんはうなずいて、まじだぁ、と答えた。

「趣味悪いよね、言いたいことわかる」
「いや、そうじゃなくてでっかいなぁと」
「シンデレラ城って呼ばれてるらしいよ」
「そうかぁ」

 ネネちゃんの母親がお金持ちなのは聞いてた。だけどまさかこんなレベルだとは。

「うちもさぁ、小金持ちだったんだよね昔は」

 衝撃のあまり、関係ないことを口走ってしまった。コガネモチ? ネネちゃんが不思議そうに訊く。

「母さんが病気になるまで、父さんはまぁまぁの企業に勤めててさ。まぁまぁの小金持ちでまぁまぁでっかい家に住んでたんだけど」

 これはちょっとレベルが違う。ガチのやつだ。庶民の足はめちゃくちゃ竦む。

「おれ通報されたりしないかな。どう見ても場違いな感じじゃない?」
「なにバカなこと言ってんの。恐怖はこれからなんだよ」
「武器持ってくるの忘れた」
「素手でいけ」

 はじめてネネちゃんに会ったとき、彼女はモデルの仕事をしてた。

 人数合わせで連行された美容部員たちの合コンで、ネネちゃんは心の底からつまらなそうにニコニコしてた。

『今日の合コンはやばいぞ』

 おれのバイト先の人気スタイリストは恩着せがましくおれに言った。

『今日の合コンは奇蹟だ。バチカンに申請してもいいやつだ。現役モデルが五人もいる。欠員が出たなんてオマエほんとにラッキーだぞ』

 ネネちゃんはその現役モデルたちの一人だった。そして偶然、おれの隣に座った。

『あたしね、カレシいるんですよ』

 ネネちゃんは自己紹介のときにそう言って、出だしから男性陣のテンションを下げにかかった。完璧なプロの笑顔のままで、さっさと帰りたいのが見え見えだった。

『なので、基本的にあたしのことは気にしないでくださいね!』

 ヤロウどもはその瞬間からネネちゃん以外の女の子を狙いはじめて、だからネネちゃんはひたすらカシスソーダを飲みつづけてた。

 ネネちゃんはずっと笑顔だった。だから特に場が白けることはなかった。雑談には楽しそうに参加したし、面白い話には笑ってた。だから彼女が今すぐにでも帰りたがってるなんておれ以外は気づかなかったと思う。

 彼氏はどんな人なの?

 おれが最初に話しかけたのはそれだった。隣に座ってたし、何も話しかけないのも変だし、かと言って口説いてるみたいに聞こえる話題もいやだったし。

 写真撮るひと。

 ネネちゃんの答えはシンプルだった。そっか、なんて適当に頷いて、改めてネネちゃんを見た。

 ネネちゃんはたしかにキレイだった。だけど他のモデルの子たちとは何かが違った。それが何なのかしばらく考えて、あぁネネちゃんは一人だけ大人なんだ、って気づいた。

 いや、酒の席だしもちろんみんな成人してるんだけど。なんていうか、一人だけ完璧に大人だった。自立してて、表情も感情もきれいにコントロールしてて、なのになんだか危なっかしかった。

 こんなに若くて可愛くてニコニコしてるのに、彼女にはどこかダークな雰囲気があった。理由が分からないそのミスマッチにおれは落ちた。

 カッコいいなぁ。

 単純にそう思った。別に彼女とどうこうなりたいってわけじゃなくて、ただ友だちになりたいなぁと思った。だからズバリそのままを言った。友だちになってくれない? って。

 ネネちゃんはカシスソーダをぐびぐび飲みながら、いいよ、って答えた。

 最初からネネちゃんはカッコよかった。シンプルで、良い意味で自意識が低くて、おれの百倍くらいは雄々しかった。

          *

「立花奏一郎です。はじめまして」

 美術館みたいな玄関ホール(呼び方はこれでいいのか?)で、おれははじめてネネちゃんのお母さんと対面した。

 はじめて会った日のネネちゃんを思い出したのは、目つきがそっくりだったからだ。

「いらっしゃい。ネネの母の静華です」
「これ、お土産です。食べ物よりこっちがいいだろうって彼女が」

 ネネちゃんがバイト先から仕入れてきた蘭の鉢植えを手渡す。女性が持てるくらいの大きさの可愛いやつで、ネネちゃんが言うにはタダ同然で買ったらしい。

「きれいね、ありがとう。お花は大好きなのよ」
「久しぶりだね、ママ」
「そうね。何年ぶり? 三年? 四年?」

 リビング......というよりは応接間? でいいのか呼び名は? へ案内されながら、珍しく笑顔がないネネちゃんをチラ見した。彼女はおれの視線に気づくと、指で首を掻き切る仕草をした。真顔のままで。

「甘いものはお嫌いじゃない? コーヒーは?」
「なんでも食べます」

 最高にバカっぽい返事をしながらおれのベッドの三倍くらいはでかいソファに座らせてもらった。そして生まれてはじめて個人宅にあるシャンデリアを見た。

 シンデレラ城か。なるほど。

「わざわざ来てくださってありがとう。驚いたけど嬉しいものね」
「こちらこそありがとうございます。お会いできて光栄です」

 ネネちゃんのお母さんはおれの想像とはまったく違った。

 おれの貧困な想像力が作り上げたイメージでは、ネネちゃんのお母さんは毛皮をまとってでっかいダイヤの指輪なんかしてた。長い真っ赤な爪で、何ならユキヒョウなんかをペットに飼ってた。

「ネネが誰かを連れてきたのなんていつ以来かしらね。小学生以来?」
「かもね」

 ネネちゃんのお母さんは、すごくシンプルな人に見えた。

 グレーのワンピースに栗色のショートカットの髪。小さな石がついたネックレス以外にアクセサリーはなし。

 落ち着いた感じで、すごい美人ってわけでもない。拍子抜けするくらい普通の人だ。この人が妖怪? ラスボス?

「ところで立花さん、ご結婚してらっしゃる?」

 家政婦さんらしき人が持ってきてくれたコーヒーを、ちょうど一口飲んだところだった。あやうくコントみたいに吹き出すところだった。

「え、いや、まさか。独身です!」

 ネネちゃんは無表情のままでケーキにフォークを突き立ててる。

「本当に? 良かった。失礼ですけどおいくつなの?」
「二十四です」
「じゃあそんなに歳上ってわけでもないのね。ネネったらすごいファザコンだから、高校生のときなんて一回りも上の男のひとと付き合ってて」
「あぁ、えっと、はい」
「ご存じだった? 十八歳になった途端に家出して駆け落ちしたのよ。しかも既婚者だったの」

 ラスボスか。なるほど。
 これは想像と違うタイプのやつだ。

「とにかくパパっ子でね。うちは早くに離婚したんですけど、とにかく父親の影を追い求めて」
「そう......なんですかね」
「こうなったのは私の責任でもあるのよ。私がロクデナシと結婚しちゃったばっかりに、ネネに悪い影響を与えちゃって」

 グシャ。

 何かが潰れる音にぎょっとした。ネネちゃんが乱暴にミルフィーユを潰した音だった。

「ネネ、そんな食べ方しないの。ママいつも言ってたでしょう? お行儀良くしてなさいって」
「......ばぁ」
「なぁに?」

 おれには聞こえた。『くそばばぁ』だ。

「ネネ、あなたさすがに失礼でしょう? 恋人を紹介するって連絡をくれたのはあなたなんだから、ちゃんとこっちを見て話しなさい」
「......っさいんだよ......の......ばぁ」
「だからこっちを見なさい」

 やばい。始まる。

「おれ!母親を亡くしてるんです」

 とっさに出た言葉がそれだった。ネネちゃんとお母さんが同時におれを見る。とりえず戦闘は回避した。のか?

「今の母親は二人目で。すてきな人なんですけど、産みの母親は病死してるんです。おれが四歳のときに」

 どんなタイミングだよ、おれ。ここからどうするんだよ、おれ。

「それは......お気の毒に」

 ネネちゃん母がしんみりと言う。

 だよな。そう言うしかないよな。場の雰囲気は変わった。だけど収拾がつかない方向へだ。

「あ、いや、そうなんですけど、四歳だからそのこと自体はよく覚えてなくて。それよりも、母親が亡くなった後の父親が大変で」

 歯茎から血が出る。
 それが母親の最初の症状で、本人も含めてだれ一人それを深刻に考える人間はいなかった。まさかそこから死に繋がるなんて思いもしなかったと、父さんは幼いおれに話してくれた。

「まず、看病なり何なりで仕事はとっくに辞めてて。母さんと住んでた家にいられないから、って家も売って引っ越して。保険金なり家を売った金なりでまぁすぐに生きてくのに困るってこともなかったから無職のままで」

 母さんが病気になる前、父さんは絵に描いたような仕事人間だった。家事なんてしたことはなかったし、息子のおれとどう接すればいいのかも分からなかった。

「死んだ母さんはピアノの先生で。家にグランドピアノがあったんですけど、父さんはそれだけはどうしても売れなくて。でも引越した先はそんなもの置ける場所なんてないマンションで。で、倉庫を借りてピアノを入れて。ひどいときは倉庫で寝て帰って来ませんでした」

 おれはそのことを世間にかくした。父さんは頑張って家事をやってくれてる。おれも手伝ってるし、二人で協力してる。それも嘘ではなかったからその部分だけを強調した。

「おれたちは......その、けっこうボロボロでした。父さんは一生懸命おれの世話をしてくれようとしたんですけど。そういうのの才能がない人で。家政婦さんとかシッターさんとか、そういうのを雇うと母さんに申し訳ない、みたいな変な考えに固執してて」

 ネネちゃんがおれを見てる。当然だ。こんな詳細はネネちゃんにさえ話したことがない。

「父さんは夜、おれが寝たあとに出歩くようになったんです。実はおれは寝てなかったんですけど。で、どっかでベロベロになるまで飲んで明け方に帰ってきて。そんな状態だから、もともと才能がない家事もまぁひどいもんで」

 ネネちゃんに話した斬新すぎるミートスパゲティはまだ笑える部類だ。生のままのジャガイモを力技で潰してポテトサラダを作ろうとしたり、水で溶いた小麦粉だけでホットケーキを作ろうとしたり。水と間違えておれに焼酎を飲ませたことだってあった。

「ゴミ出しの日をいつまでも覚えなくて、夏場なんかひどいことになってて。おれも頑張って手伝ってはいたんですけど、まだ子どもだったからなかなか上手にできなくて」

 おれたちの生活の中心には、大きくて埋められない穴が空いてた。それは目に見えなくて、だけど確実に存在してて、うっかり足を踏み外すと落下して二度と戻ってこれないやつだった。そして父さんはいつもその縁のギリギリをさまよってた。

「なんていうか、QOLが極限まで下がった状態だったんです。生活するってすごいことなんだな、って子ども心にも思いました。日常を維持するってホントに偉大なことなんだろうって」

 おれたちの間にあった真っ黒な穴。いるべき人の不在。愛情が一方通行にしかなれないことの、絶対的なかなしみ。

 おれは毎日怖かった。それ、はいつでも近くにあって、突然誰かを引きずり込む化け物だった。もしも特別なことがなかったとしても、平穏に百歳まで生きたとしても、いつかはみんなそれに捕まる。

 いつかは必ず、みんな平等に、消えてなくなってしまう。
 そしてそれは百年後かもしれないし、五分後かもしれない。

「今のお母様とお知り合いになられたのはいつ?」

ネネちゃん母は、すっかりおれの話に引き込まれてる。母娘の闘争を食いとめることには成功したけど、おれは一体この話をどう終わらせればいいんだ。

「夜中に出歩いて飲み歩いてたころですね。わりと近所に行きつけのスナックがあって、そこのママだった女性です。友だちでした」
「今もそういうお店をやってらっしゃるの?」
「いや、もうとっくに辞めてます。おれの母親になってくれたときに、全部をイチからやり直したんです」

 百合さんは父さんのことを友人として気にかけてくれてた。最初はそこに男女の関係はなかったと思う。百合さんはロクデナシの夫と別居中の既婚者だったし、母さんを愛しすぎてた父さんに他の人に惹かれる余裕はなかっただろうから。

「母さん......いまの、ですけど。彼女はお店をたたんで、離婚もして、それからうちに来てくれたんです。友情婚、てやつだったと思います。少なくとも最初は」
「それで、お母様はご家庭に入られた?」
「オンラインでできる仕事を始めたんです」

 ネネちゃんは知ってる。かなりアヤシイけど人気の占い師だ。どうかここはつっ込まないでくれネネちゃん母。説明があまりに胡散臭い感じになる。

「すごい人ね」

 願いが通じた。オンラインの仕事の内容はスルーされた。

「そうなんです。すごい人なんです」

 百合さんはおれたちの人生を変えてくれた。まずはキッチンがきれいになって、カーテンの色が変わった。食器が揃って、タオルがふわふわになって、カラフルで美味しい食事が毎日出てきた。

 百合さんは何もかも新しくした。家具から何からぜんぶ買いかえて、だけど母さんのものだけはなに一つ捨てなかった。

「箸とかね、そういうのも捨てなかったんですよ」
「お箸?」
「亡くなった母が使ってたものです。服とか、アクセサリーとか、本とか、箸とか。そういう些細なものも捨てないで、使ったんです」

 そう、使ったんだ。何度思いだしても百合さんはすごい。よく知らない、亡くなった人の私物なんて普通はちょっと不気味だろう。

「日常のなかに、亡くなった母を取り込んだんです。捨てて区切りをつけたりする必要はないって。愛された人の遺したものはきっと愛を運んでくれるって」

 母さんの服を着た百合さん。もちろん、自分に似合うやつだけだ。アクセサリーも、気に入ったものは普通につけてた。最初におれと父さんの許可をとって。

「ピアノはどうしたの?」

 ネネちゃんがおれをじっと見て訊く。世界一大好きな、真剣そのものの瞳。こんな話を唐突に始めたおれを、彼女はどう思ったんだろう。

「ピアノはね、しばらくそのまま倉庫にあったよ。だけど父さんがそこに行く頻度は減ってった。で、それから何年か経って、ある日父さんがおれに訊いたんだ。音楽は好きかって」

 好き、と即答した。おれは母さんのピアノの音色を覚えてた。それは記憶のものすごく深いところに眠ってて、おれのポジティブな感情を引き出してくれる魔法だった。

「好きって答えたら、何かやってみたい楽器はあるかって訊かれて。特に深く考えないでギターかなって答えた。そしたらギターを買ってもらえた。小学生にはふつう買わないような値段のやつ」
「もしかして、ピアノを売ったの?」
「そう。正解!」

 おれは天才ではなかったけど、一応母さんの音楽的な才能を引き継いでた。おれはギターに夢中になって、気がついたら今みたいな感じになってた。

「そーいちろーはギタリストなんだよ」

 ネネちゃんが説明する。母娘闘争寸前だったことはとりあえず忘れてくれたらしい。

「プロなの?」
「いやまぁ......兼業ですけど」
「すっごくカッコいいんだよ。ライブだと別人なの」

 何だって!? 

 びっくりしてネネちゃんを見た。そんなことを言われたのははじめてだし、そんなことを思っててくれたなんて知らなかった。

「じゃあ、あなたもロクデナシね」

 ネネちゃん母がさらりと言う。ネネちゃんは不穏な表情でフォークを手に取って握る。待て待て待て!

「まぁ、否定はできませんね。でもネネちゃんのことは絶対に大切にしますよ」
「絶対なんてどうして言えるの」
「ママ、あんたさぁ......」
「おれが決めたからです!」

 フォーク握ったネネちゃんの手に触れる。早まるな。ジョンレノンを見習え。ピースだピース。

「おれが決めたんです。おれは、自分が好きになる人にだけは自信があるんです」

          *

 青い鳥。

 おれの、幸運の、青い鳥。

 出会えたことに感謝して、永遠に大切に関係を育んでいくべき人物。おれは本能的にそれが分かる。だから今まで、大した才能もない割にはおおむね幸福に生きてこられた。

「おれは、人が消えちゃうってことを知ってます」

 ネネちゃん母の目をじっと見る。強い眼差しだ。大好きなネネちゃんそっくりの。

「一緒にいてくれるってことが、気にかけてくれるってことが、大好きだってことが、どんなに尊くて恐ろしいものかってことを知ってます」

 おれは「それ」が恐ろしい。失うことが。存在していたものが見えない穴に引きずり込まれて消えることが。

「だから、おれが大好きだって決めた人のことはなにがあっても大切にするんです。絶対に味方でいるし、絶対に嘘をつかない。逆にもしも嘘をつかれても、味方でいてくれなくても許す。たましいを丸ごと受け容れるんです」

 おれはタナトフォビアだ。死が、死という概念が、いつも身近にあるそいつが、恐ろしくて仕方ない。

 ときどき、夜中にとび起きる。大切な誰かがもうこの世にいないんじゃないかって、もしくは今日がおれの最後の一日なんじゃないかって、よく分からない妄想で心臓がバクバクする。

 そんなときは大急ぎで考える。大丈夫だ、準備はできてる、って。今日がその日であっても悔いはないように、おれは毎日を百パーセント愛して生きてるって。

「だからそこだけは心配しないでください。おれはたぶん一生そんなにパッとしないギタリストで、別にイケメンでもないし生涯賃金も平均以下だろうけど、ネネちゃんのことは絶対に大切にします」

 なんてカッコよくない宣言なんだ。ネネちゃんも内心呆れてるだろう。でもおれに言えることはこれくらいなんだ。

「あと、そうだ、ありがとうございます。ネネちゃんみたいなステキな子をこの世に産み出してくれて」

 ネネちゃん母の瞳が見開く。瞬きをして、眉間に皺が寄って、元に戻る。それから口角が少し上がった......ような気がした。

「ネネをよろしく」

 素っ気なく言ってネネちゃん母は席を立った。コーヒーのお代わりを持ってくるから。そんなことを言ってたけどコーヒーはまだたくさんあった。

 ネネちゃんは宇宙人でも見たような顔でそんな母親の後ろ姿を眺めてた。

           *

「やべ。めっちゃ恥ずかしくなってきた」

 ネネちゃん母が呼んでくれたタクシーに乗って四十五秒。まだ屋敷だらけのエリアを抜けてもいないのにおれは顔が赤くなるのを感じた。

「なにやってんだおれ。なんだあれ。ごめん、あんな話するつもりなかったんだけど」
「なんで!? 謝ることなんてなんにもないよ」

 ネネちゃんがおれと手をつなぐ。殺気立ってフォークも握ってた、細くてきれいな指。

「そーいちろーはすごい。ほんとすごい。まさかあっさりとラスボスを倒すとは」
「倒した!? 敗北感しかないけど気のせい?」

 ネネちゃん母はすごく自然に上品におれたち二人を追いだした。お土産のお菓子の紙袋(有名な高級店だ。おれでも知ってる)をネネちゃんに持たせて、チップ込みの料金支払い済のタクシーを呼んで。

 バトルは発生しなかったけど仲良くなれたわけでもないし、社交辞令の「今日はありがとう」以上の言葉もなかった。当然「また来てね」的な言葉もなかった。

「勝利。カンゼンに勝利。あたしママのあんな顔はじめてみた」
「どんな顔?」
「泣きそうな顔」

 なんだって? おれにはそんなものは見えなかったぞ?

「そーいちろーはやっぱすごいよ。あたし今カンドウしてる」
「ちょっと意味わかんないや」
「ごめんね、いやな気持ちにさせちゃったよね。でもすごく嬉しかったよ」

 タクシーがやっと屋敷エリアを抜ける。美術館か大使館みたいな家たちから遠ざかってホッとする。

「いやな気持ちになんてなってないよ」
「そんな人いるんだ」
「ただ恥ずかしい。ひたすらに恥ずかしい」
「なんで?」
「いやふつうに。ダサかったおれ」
「ええぇぇぇ?」

 繋いでた手をほどいて、ネネちゃんはいったんおれから離れた。なにをするんだろうと思ったら荷物をぜんぶシートの端っこによけて、それからおれに抱きついた。横から。

「うわびっくりした」

 ネネちゃんはなにも言わない。ただぎゅうっと、その体勢でできる限りの力でおれを抱きしめてる。

 ネネちゃんの親友のぬいぐるみの気持ちが分かった。いつもこんな幸せな思いをしてるのか、あいつめ。

「ね、そーいちろー。歩いて帰らない?」

 気力さえあればできない距離でもない。ネネちゃんの家までは四十五分、おれの家までは一時間くらいだろう。

「いいけどヒール履いてなかった?」
「問題ないよ」

 さすが元モデル。現市場勤務者。素人には真似できない。

「ここでいいです!」

 ネネちゃんが満面の笑顔でタクシーを停める。おれたちは十月の午後七時の大通りに放り出される。

           *

「あのくそばばあ、相変わらずだった」

 ネネちゃんがまたおれの手をつなぐ。迷いなく歩きだす方向感覚に恐れ入る。ネネちゃんはいつだって自分がどこにいるか分かってるんだ。

「いっつも誰かをキズつけてパワーを奪うの。エナジーヴァンパイアっていうんだって。ネットで知った」
「ヴァンパイアかぁ」

 ネネちゃん母はたしかに個性的だけど、おれは別にいやではなかった。とりあえずヒョウとか虎は飼ってなかったし、生命の危険も感じなかったし。

「そんなにいやな感じではなかったよ、おれにとっては」
「なに、聖人君子ってヤツ?」
「その使い方合ってるのかな」

 どこかで電車の音がする。私鉄の駅が近くにある。いざとなったらそれで帰れる。

「あたし、知らなかった。そーいちろーの昔のこと」
「そうだよね、ごめんね。隠してたわけじゃないんだけど、なにもあのタイミングで話すことないよね」

 また顔が熱くなってきた。彼女の母親の前で熱く自分語りだけした男。生涯賃金は平均以下だと思います! なんて宣言したバカヤロウ。ヤバすぎる。

「うれしかった」

 ネネちゃんのヒールの音が小気味良く響く。すごいよなぁ。どうしてこんな靴でカッコよく歩けるんだ。

「あんなふうに話してくれて。鬼ママの前で話してくれて」
「タイミングとしては最悪の部類かと」
「そんなことない。ぜんぜんない」

 足を止める。どうしてなのかは分からない。ただ、ちょっとだけ立ち止まりたかった。ネネちゃんはなにも訊かないで一緒に止まってくれる。

「ねぇネネちゃん、死んじゃった人はどこに行くんだと思う?」

 おれは自分がそう訊く声を聞いた。なんでだ。今日のおれは一体どうしたんだ。

「天国」

 なんの迷いもなくネネちゃんが答える。髪の毛がサラサラと夜風になびく。

「天国か。どこにあるんだろうね」
「ここ」

 ネネちゃんは腕を伸ばして、おれの心臓のあたりを指差した。そして手のひらでそこに触れた。

「ここ?」
「それからここにも」

 もう片方の腕で、今度はおれの額に触れる。

「記憶と気持ちのなか。そこが天国。だから覚えてれば、想ってれば消えちゃったりしてない。ずうっと一緒にいるよ」

 気がつくと、おれはネネちゃんを抱きしめてた。ほとんど人はいないけど路上だ。公衆の面前だ。こんなことしていいのはイケメンか映画のなかだけだ。

「だけどさ、死んじゃった人は話しかけても返してくれないよね。一緒にいてくれても、答えてくれなきゃよく分かんないよな」
「答えてくれてるよ。いつだってちゃんと」

 おれの腕のなかのネネちゃんは華奢で、あたたかくて、そこから生命の気配がして、幸せで、こわくて、どうしていいのか分からなくなる。

「ちゃんと答えてくれてるし、一方通行なんかじゃないよ。そーいちろーはアーティストなんだから、ふつうの人より聞こえるはずだよ」
「そうなの?」
「うん。表現するって、見えないものとオハナシすることだからさ」

 ネネちゃんはカッコいい。世界中の秘密を知ってるみたいだ。おれはどうすればいいんだろう。どうすればこの美しい人に、ちょっとでも何かを返せるんだろう。

「愛されるものはカタチを変えるの。たましいには過去も未来もカタチもなくて、だからずうっと一緒にいるの」
「どうしてそんなすごいこと知ってるの」
「ちび丸が言ってた」

 ネネちゃんの親友ぬいぐるみだ。あいつめ、ネネちゃんとこんな話までしてるのか。

「ねぇネネちゃん」
「なぁに?」
「おれ、ネネちゃんとずっと一緒にいたい」

 タナトフォビアが、恐怖症が、襲ってくる。
 怖い。彼女が死んじゃうことが怖い。おれが死んじゃうことも怖い。それがいつなのか分からないことが怖い。

 いつか絶対にいなくなるんだっていう事実が怖い。こんなに幸せなのに。こんなに美しくて完璧なのに。真っ黒い穴はいつだってある。今だって。この瞬間にだって。

「うん。あたしも」
「おれといてくれる? あんまりパッとしない人生だと思うけど」
「よゆうだよ」

 心臓がバクバクする。いとしいのと怖いのとはすごくよく似てる。どっちも平常心じゃいられない。

「こんなことになるとは思わなかったな」
「こんなこと?」
「最初に会ったとき。こんなに好きになるなんて思わなかった」

 おれはネネちゃんにすがりついてる。子どもが母親にするみたいに。まさかおれはマザコンだったのか。

「あたしはクソヤロウと付き合ってたしね」
「でも友だちになってくれて嬉しかった」

 ネネちゃんはモデルで、写真を撮る大人の男と付き合ってて、おれなんか眼中になかった。おれだってまさか友だち以上の関係になれるなんて考えなかった。

 こんなに、世界一、大切な人になるなんて。

「ちび丸は知ってたよ」
「なにを?」
「ちび丸はずうっとそーいちろー推しだったんだよ」
「まじか」

 ネネちゃんがおれの腕の中から抜ける。逃げる感じじゃなくて、するっと、羽ばたくみたいに。

「うちに泊まってく?」

 ネネちゃんは軽やかに歩きはじめる。いつも以上にベタベタしたがるおれを、嫌がるわけでも心配するわけでもない。

「今日は塩ラーメン作ってあげるよ。オリジナルの新作」

 笑いながら振り返って手を差しだす。ヒールを履いた細い脚は、しっかりと大地を踏みしめてる。

「やったね」

 差しだしてくれた手を握る。おれは彼女について行く。自由できれいな青い鳥。おれは羽ばたく彼女を追いつづける。

 その先には必ず幸せがあることを、おれはちゃんと知っているから。

                〈了〉

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