はじめて「本物の」ミートスパゲッティを食べたのは小学校の給食だった。 キラキラ光るオレンジ色で、ひき肉と玉ねぎとナスも入ってた。それが白い麺にかかってて、緑色のパセリも添えられてた。 それが「ミートスパゲッティ」だって分かったのは献立表を読んだからで、それがなかったらおれはその食べものの名前が分からなかったと思う。 小学生のおれが「ミートスパゲッティ」だと認識してたのはそれじゃなかった。雑に切った豚肉とキャベツを炒めたものに桜でんぶがかかったやつ。それが伸びきっ
あたしのパパはロクデナシのイロオトコで、世間知らずだったママはコロッと騙された。 ママはイイトコのお嬢さまだった。同じくらいイイトコのおぼっちゃまと婚約が決まってたのに、売れない役者だったパパと駆け落ちした。そしてすぐに捨てられた。 パパの目当てはママのお金だった。実際、パパはずっとママのヒモ状態だったし、あたしがちょっと大きくなったらもっと若い女を作って出て行った。 ってママは言ったけど、あたしはそれだけじゃないと思う。パパは最初は本当にママが好きだったと思う
あらすじ 可愛いのにタフで危なっかしい女の子、ネネ。 年上の既婚者とのロクでもない恋愛に悩む彼女を、そっと見守るペンギンのぬいぐるみ、ちび丸。 そんな二人の前に現れたのは、売れないギタリストのそーいちろー。 キュートでちょっとダークで切ない、三つの「だいすき」の物語。 * チェリーレッドとサマーレッド、どっちがいいと思う? ネネがおれの目の前にビンを持ってきて言う。おれに違いが分かるわけがない。 チェリーだよねたぶん。 ピンク色
その人の手首には識別タグがなかった。 はじめて彼女を見かけたとき、私はまずそのことに気がついた。タグがない。けれども決して不審者ではない。 その人は若く、美しく、いつもネイビーのガウン姿で図書室にいた。そして紙の本を手にして窓の外を見ていた。本を持っているのに読んでいる様子はなかった。本はその場にいるための小道具みたいだった。 図書室は本館から渡り廊下で繋がる離れにあった。ここの施設で唯一だれでも入室可能な場所で、それでもなのかそのせいでなのか滞在者はまず誰も行
フェイクIDは三つのなかから選べて、あたしは迷わずいちばん最初に見せられたやつを選んだ。 ヴァイオレット・ウォン。 サカガミ・ケイコでもアンジェラ・ロペスでもなくてヴァイオレット・ウォン。一目みて気に入ったし、それだけでテンションが上がった。 小林はそんなあたしを冷めた目でみて、それから最後の仕上げに取りかかった。追加料金できれいに加工してもらったあたしの写真はIDにペーストされて、その瞬間からあたしはヴァイオレット・ウォンになった。 これを手に入れるために
ヴァイオレットは世界の終わりみたいに泣く。 真冬の、雪が降る直前の、不穏な紫色の空みたいな泣き方だ。 昔、何かのドキュメンタリー番組で観たことがある。爆撃で住んでいた村が消えてただ泣いていた小さな子供。ヴァイの涙はおれにそれを思いださせる。 ヴァイはバックシートで泣いてる。セブンイレブンの前に車を停めておれは禁止されてる煙草に火をつける。窓を大きく開けて煙を吐きだす。 明らかにカタギじゃないおれたちに文句を言いに来るヤツは誰もいない。通行人はあからさまに距離を
ルティは歯を矯正してた。 しばらくぶりに会ったルティは、愛しくてたまらないみたいにわたしの名前を呼んだ。それから笑ったルティの口許はとてもきれいで、完璧に作り直された真っ白な歯がずらっと並んでるのが見えた。ドクターもナースもカウンセラーも誰もわからなかったと思うけど、あのときわたしがブチ切れたのはその歯のせいだった。 ざけんなよ。 そう言ったつもりだったけど、あとでドクターに聞かされた話だとわたしはただ叫んだらしい。錯乱した老人みたいに奇声をあげて、それから近く
写真のなかのその人は紺色のドレスを着てる。 素材は分からないけど高価そうな生地だ。光沢があって、裾は膝丈より少し長いフレアで、ドレス全体に透かしたような百合の花の模様が入ってる。 その人の髪はブロンドで、だけど染めたブロンドだって一目で分かる。とてもきれいにブリーチされたその髪は銀色の髪飾りでアップにまとめられてて、羽織ってるリアルファーらしいショートコートによく合ってる。ネックレスとイアリングはたぶんダイアだ。小さな光る石がいくつも連なってて、豪華なのに下品じゃな
〈あらすじ〉 「最初の銃声が鳴り響いたときに、あたしが考えたのはあなたのことだった」 強盗に入られた主婦の封印された過去。自分と同じ顔の女を見つけた少女の葛藤。崩壊したトップモデルの願い。コールガールと送迎ドライバー。 ばらばらの物語がひとつになるとき、そこに浮かび上がる真実とは? 「存在」をテーマにした長編ミステリ小説。 * プロローグ 最初の銃声が鳴り響いたときに、あたしが考えたのはあなたのことだった。 ダン ダン ダン
松本さんはあたしを「かのんちゃん」って呼ぶ。 花音っていうのは正真正銘の本名で、実はあたしの本名を呼ぶ人はもう松本さんしかいない。 あたしの源氏名は「みみ」で、松本さん以外の人はみんなあたしをその名前で呼ぶ。みみちゃん。うさぎみたいで可愛いね、みみちゃん。 松本さんに本名を教えたのは彼の娘さんがみみって名前だから。最初に自己紹介したときに松本さんはまずそのことで笑った。気まずいなぁって。 『おれの娘と同じ名前なんだもん』 『本当に? かわいい名前』 『別れた奥
雪が、降ってきたね、とあなたは言う。 ラインの向こう側にあなたはいる。この世界のどこかから、あなたが私に話しかけている。 私はあなたの声を知っている。あなたの顔を知らなくても、あなたが名前を変えてしまっても、あなたの声を覚えている。 雪が、降ってきたね、とあなたは言う。それが正しい情報なのかどうか私には分からない。窓の外を見ることはできないし、あなたがどこに住んでいるのかも知らないから。 「ここは晴れていますよ」 私に言えるのはそれだけだ。あなたは答えずに
その車は盗難車で、ナンバープレートは付け替えられてた。 そんなことが分かるようになっちゃった自分が笑える。もしくは悲しい。 ディテール。細部までまじまじと観察すること。これが現実だと認識すること。 深夜一時の高架下。アメリカ。イリノイ州シカゴ。あたしは二十歳の日本人で、今夜殺される。 「ハイ!」 元気いっぱいに現れたあたしに、運転席の男は驚いたと思う。一瞬間があいて、男の戸惑いが伝わった。それからスルスルと運転席の窓が下がって、若い男が顔を見せた。 「メ