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『アイムヒア』第一話

〈あらすじ〉

「最初の銃声が鳴り響いたときに、あたしが考えたのはあなたのことだった」

 強盗に入られた主婦の封印された過去。自分と同じ顔の女を見つけた少女の葛藤。崩壊したトップモデルの願い。コールガールと送迎ドライバー。

 ばらばらの物語がひとつになるとき、そこに浮かび上がる真実とは?
「存在」をテーマにした長編ミステリ小説。

         *

プロローグ

 最初の銃声が鳴り響いたときに、あたしが考えたのはあなたのことだった。  

 ダン ダン ダン  

 それが銃声だって最初に気づいたのはあたしだったかもしれない。映画なんかとはちがうその音。映画よりももっと低くて、もっと日常な感じのあの音。    

 あたしは鏡の前にいて、ちょっとでも自分をきれいに見せようってばかみたいに頑張ってた。

 ドレッサーはすごく豪華であたしなんかが顏を映すだけでも勿体なくて、あたしは間違えて鏡に指紋なんかつけないようにすごく慎重に取れかけちゃったつけ睫毛を直してた。  
 ダン ダン ダン ダン ダン  

 悲鳴が聞こえたのはしばらく経ってからだった。あたしは顔を直すのをやめて、ドアの方を振り返った。  

 本当はすぐに伏せなきゃいけないって分かってた。でもあたしはやっぱり上手に動けなくて、ただドアを見つめながらあなたのことを考えてた。  

 あなたは大丈夫かなって、あなたはちゃんと安全な場所にいるのかなって、そんなことを考えなくてもいいのに考えてた。あたしがそんなこと心配しなくても、あなたは絶対に大丈夫なのに。あなたはあたしとは違うんだから。たぶん地球が割れたって安全な場所にいられるんだから。  

 ダン  

 それはあたしがいる場所のすぐ外だった。ついでに思い出したみたいにひとつ銃声がして、だれかがドアの向こう側で止まった。  

 あたしはドレスの肩ひもを直した。できるだけきれいな格好でいたかった。ほんの少しでもいいからマシでいたかった。あなたがあたしを見つけたときのために。  

 撃った人の顔は見えなかった。ドアが開いて、見えたのは黒っぽい影だけだった。  

 あたしが床にしゃがんだのは身を守るためじゃない。このきれいなドレッサーをあたしの血で汚したくなかったんだ。

          *

 公式には、わたしと夫とはライブ会場で出会った。

 それは十八年前の話で、そのときわたしは二十歳。友人に連れて来られた無名バンドのライブで、退屈しきっていたわたしに夫が声をかけてきた。夫も同じく、つき合いで来たそのショーに退屈していたのだ。

 何と言って声をかけたのか。

 その質問は意外なほどよく訊かれた。訊かれるたびにわたしたちは視線を合わせ、夫はその場で思いついたセリフを言った。

 ひとり? だったかな。
 こんばんは、だったじゃない。

 わたしたちは互いの記憶違いを笑い合い、その話題を曖昧にする。その会場はどこだったのか。何という名前のバンドだったのか。それは答えるたびに違う。そんなことは重要ではないし、だれも本気で知りたいわけではない。

 あなたはすごくチャラチャラしてた。

 わたしはその場で話を作る。そうだった? 夫は適当にそれに合わせる。

 髪の毛がピンクで。わたしより長くて。
 君より長いことはないだろう。
 長かった。わたしはその頃ショートヘアだったから。

 嘘だ。

 それは何もかも、すべてわたしたちの創作だ。わたしたちはそんな風に出会ってはいない。夫の髪が長かったことだけは本当だけれども、それは別にファッションとして伸ばしていたわけではない。

 わたしたちの本当の出会いは車の中だった。夫は運転席にいて、わたしは後部座席にいた。夫の顔は分からなかったし、興味もなかった。実際に、彼の顔をはっきりと見たのは随分とあとになってからだった。

 わたしたちが会うのは真夜中だけだったし、彼は運転手でわたしは運ばれる商品だった。

 わたしたちは世間話を交わすだけだった。車内は消臭スプレーの匂いがした。後部座席から見えるのは彼の汚れた長い髪と、ミラー越しの瞳だけだった。

 きれいな瞳だ、と思った。飢えた獣のような目ばかりを見てきたわたしは、すぐに彼がこちら側の人間ではないと分かった。それが分かったのはもちろんわたしだけではなかった。あのころ彼の車で運ばれていた女の子たちは、みんな目ざとくそれに気づいた。

 六番のドライバー。

 それが彼の肩書きで、彼についての情報のすべてだった。女の子たちは彼を狙っていた。彼は滅多に現れることのない、あちらの世界へのチケットだったから。
 彼だけが気づいていなかった。彼だけが、自分が獲物であることを知らなかった。

           *

 いま、娘のベッドの上で、生命の危険を感じながらわたしはそのことを思いだしている。夫と出会った世界のことを。かつてわたしが、わたしたちが属していた闇の記憶を。

「動くな」

 侵入者はわたしを娘のベッドに押さえつけ、囁くようにそう言った。それは何だか奇妙だった。わたしはまったく動いてはいないし、一度も抵抗すらしていないのだから。

「騒いだら殺す。分かるな?」

 黒いマスクから覗く瞳は金色に見えた。セキュリティ会社のロゴの入ったユニフォーム。真昼間に、住宅街の家に侵入するにはたしかに便利そうだ。

「大人しくしてれば傷つけない。いいな?」

 わたしは頷いた。侵入者はわたしの手首を押さえつけていた力を緩めた。

「金庫はあるか」

 侵入者の声に意識を集中した。知らない声だった。男の声で間違いないと思うが、なぜかはっきりと断言できない。その声は粗雑で切迫していて、なのに恐怖を感じさせない。

 不思議な声だ。こんな声なら忘れない。少なくとも侵入者は身近な人間ではない。なぜここを選んだのかは分からないが才能のない強盗だ。この家には大金も、価値のある品もない。娘は寮に入っているから、若い女すらいない。

「寝室に」

 金庫はある。ただし、中には何も入っていない。

「中身はなんだ。宝石か」
「空っぽ」
「ふざけるな」

 侵入者はわたしを殴ろうとした。右手でわたしを押さえつけたまま左手を振り上げる。利き腕が分かった。わたしは目を逸らさなかった。殴るのなら殴ればいい。侵入者は知らないのだ。組み敷いている目の前の女が、とっくの昔に破壊されていることを。

「本当に空っぽ。案内するからその目で確認すればいい」

 侵入者は振り上げた手を下ろした。慣れていないのだと分かった。無関係の人間、もしくは女に暴力をふるった経験がないのだ。暴力は習慣で反射だから、一瞬の躊躇いで無効化される。

「現金は」
「持ち歩かない。好きなように調べればいい。本当にないから」

 侵入者は沈黙した。わたしを見下ろす金色の瞳。コンタクトレンズだとそのとき気づいた。顔を覆うマスクからこぼれる髪はオレンジ色。人種は分からないが肌は白い。わたしを押さえつける、グローブをはめた手の感触。細い、と感じた。住宅街に侵入して女を押さえつけるような恐ろしい男の骨格ではない。

「離して。騒がないから」

 試しに口にしてみた。冷静な口調になりすぎないように気をつける。これはお願いで、決定権はあなたにあるのだと強調する。

「送金するから、端末を触らせて。娘がいるの。お願いだから助けて」

 汗の匂いがする。至近距離でわたしを見下ろす侵入者の匂い。不快な匂いではなかった。恐怖と動揺の匂いだった。数分前にわたしを殴ろうとした左手がユニフォームのポケットを探る。取り出したのはナイフだった。

「殺すぞ。もし……」

 侵入者の言葉は最後まで聞けなかった。わたしは身を翻し、娘のベッドに隠されていたテーザー銃を撃った。おそらく何が起こったのかすら分からないまま、侵入者は無様に意識を失った。

           *

 かつて、わたしは商品だった。

 まだ若く、美しく、希望を知らなかったころ、わたしは自分を売りつづけていた。わたしはあらゆる場所に納品された。花やリネンや小麦粉のように。商品であるわたしは商品であるわたしを守る必要があった。わたしは愛された娘ではなかった。愛されて保護された宝石のような少女にはなれなかった。

 娘のテーザー銃を床に放る。サーモンピンクのブランケットの上に、侵入者は仰向けに倒れている。急いで通報しなければ。娘のベッドの下に手を伸ばす。緊急通報システムのスイッチを探る。侵入者が落としたナイフを足で蹴り、ベッドの下に滑らせる。スイッチを見つけた。これを押せば十分以内にセキュリティがくる。わたしが何度も娘に言い聞かせた手順だ。まさか自分が使うことになるとは夢にも思わなかった。

 ……て
 何かが聞こえて手を止める。意識を失った侵入者の口から、吐息とも言葉ともつかない音がもれた。

 スイッチの上に手をのせたまま、わたしは息をのむ。どうして躊躇うのか自分でも分からない。そんなことをしている余裕はない。それほど凶悪犯ではなさそうだが目の前にいるのは侵入者で、犯罪者だ。テーザー銃の効果はせいぜい数分だ。殺傷ではなく時間を稼ぐための武器なのだから。

……けて

 助けて? 侵入者はそう言ったように聞こえた。自分でも愚かだと知りながら、わたしは通報スイッチから手を離した。

 ラベンダーとサーモンピンク色の寝具。大切に守られた十七歳の少女のベッドの上に倒れる人間。突然現れた異物。床に放ったテーザー銃を再び拾う。それを左手で持ち、いつでも威嚇できる状態で侵入者に近づく。自分の行動が信じられなかった。一体なにがそうさせたのか分からない。けれどもわたしはそうしたい要求を抑えられなかった。

 右手を伸ばし、侵入者に触れる。目を覚ましたら殺されるかもしれない。分かっていながらやめることはできない。まず目に入ったのは侵入者の手首だった。黒いグローブと長袖のユニフォームの隙間から露出している手首。そこになにかが巻かれている。薄汚れた水色の、ゴムのように見えるもの。わたしはこれを知っている。これの色違いを見たことがある。娘が手首に巻いていたのだ。

 ラバーズラバー

 十代の恋人同士に人気のアクセサリーだ。ゴムには恋人の名前と願い事がプリントされている。娘が楽しそうにそれを撫でる姿がよみがえる。

 わたしの中から躊躇いが消えた。ひとつの疑惑が確信に変わった。テーザー銃は手にしたまま、わたしは勢いよく侵入者のマスクを引き剥がした。

 白い肌。色を失った唇からは、撃たれた衝撃で唾液が流れている。細かく震えている瞼。鮮やかなオレンジ色に染めた髪の、根本はダークブラウンだ。口許と頬の数カ所に点在する薄桃色の湿疹。産毛のような無精髭。その顔はやつれ、薄汚れて、それなのにどこか瑞々しい。

 少年だ。


 侵入者は娘と同じ年頃の、少年なのだ。

          *

 商品だったわたしを、夫は決して区別しなかった。

 夫はわたしよりも少し年上の青年だった。彼は安物のスーツを着て、無造作に伸びた長い髪はわざと手入れされていなかった。勤務中は禁止されている煙草をしょっちゅう車の外で吸い、ついでに煙草以外のものも吸引していた。わたしはそれを無関心に眺めていた。

 ドライバーの報酬は女の子の取り分の一割だった。女の子はドライバーを指名できたが、彼は基本的にいつもナンバーワンの女の子にキープされていた。わたしは週に二度ほど、数時間だけ彼と接触できた。

 夫は女の子を区別しなかった。たいがいのドライバーはそうしたのに。彼は過剰に恭しく女の子を扱ったり、逆に隠しきれない軽蔑を滲ませたりはしなかった。

 彼はフェアだった。いつも女の子と対等で、やさしく丁寧だった。夫は上品だった。わざと汚い格好をして不摂生な生活をしていたが、その優雅さは隠しきれなかった。彼は上流から流れてきた人間だった。下流の汚水のなかにいても、その手はきれいなままだった。わたしは彼が羨ましかった。 

 夫はわたしのことを気に入っていた。わたしのことを好きだと思い込んでいた。それがわたしの計画だということに、わたしが意識して彼を誘惑しているということに、彼は決して気づかなかった。

          *
「やめろよ」

 意識を回復した少年が最初に口にした言葉はそれだった。彼は数分後に目を覚まし、一瞬で状況を理解した。焦点の定まらない瞳でわたしを見上げ、自分に向けられたテーザー銃を眺める。抵抗する気はないようだった。

「通報したならもういいだろ」

 舌がもつれた不明瞭な声。もう一度撃てば生命に危険が及ぶかもしれない。

「あなた、いくつなの?」

 彼の蒼白な顔は汗で濡れ、唇はわずかに震えている。あまりに疲弊した顔だった。十代には似つかわしくない消耗。心が痛んだのは娘がいるからか、それとも自分の少女時代を思い出したからか。

「うるさい」

 少年は眉をひそめ、かろうじてそれだけを言った。震える手で顔を覆い、苦しげに大きく息を吸う。そのまま数秒息を止め、今度は吐きだす。彼が何をしているのかわたしには分かった。分かった瞬間に、テーザー銃を床に置いた。

「大丈夫?」

 奇妙なことは分かっていた。自宅に侵入し、ナイフを突きつけて脅してきた人間にかける言葉ではなかった。少年はまた同じ呼吸を繰り返す。今度はもっと苦し気に。

「通報はしてない」

 少年が起こしている発作をわたしは知っている。そして次になにが起こるのかも分かる。

「あなたは失敗したけど致命的じゃない。何も起こらなかったと思えばいい」

 少年の呼吸が荒くなる。わたしは部屋を見回し、使えそうなものを探した。娘のドレッサーの前にそれはあった。ストロベリーがプリントされたピンク色のトラッシュ缶。それを掴み、少年のもとに駆け寄る。

「ブランケットを汚さないで」

 わたしがそう言ったのと、少年がベッドから身を起こしたのは同時だった。間一髪で、少年はわたしが差し出した缶のなかに吐いた。

           *

 夫はわたしに捕まった。わたしに罠にかけられたのだ。

 いつから夫を狙いはじめたのかは自分でも分からない。最初はそんなつもりはなかった。ショーウインドーのマネキンを見るように、ただ彼を眺めていただけだ。

「助けてくれてありがとう」

 ある日、彼はそう言った。たいしたことはしていない。家に入れただけだ。冬で、クリスマスが近かった。彼はよく躾けられた動物のようだった。礼儀正しく、遠慮はしない。彼と暮らすのは楽しかった。自分でも意外なほどに。

「いつかちゃんとお礼するから」

 真面目にそう言う夫をわたしは笑った。気にしないで。わたしたちは仲間なんだから。それは半分は本心だった。そして半分は、罠だった。わたしはずっとそれを夢見ていた。適切な男をつかまえて過去をロンダリングすることを。夫はとても上等な獲物だった。そしてとても簡単だった。繊細で傷ついた上流の男。それはわたしの得意分野だった。わたしが落とせないわけがない。

「天使だな、君は」

 冗談めかしてそう言う彼のまなざしは本気だった。彼にはわたしが天使に見えていたのだろう。自分が標的だとも知らず。

「そんなに簡単に騙されちゃだめよ」

 わたしはほとんど無意識のレベルで彼を誘惑していた。肉体的な魅力は使わず、まるで友人のような顔をして内側から彼を捕食した。

 けれどもそれは完全ではなかった。予想外の悲劇がすべての計画を狂わせた。
 あれは計画外だった。あれは誘惑ではなかった。
 あのとき夫を愛していると言ったのは、誓ってわたしの本心だった。

          *

「なんで」

 清潔なタオルで口許を拭かれ、生ぬるい水を飲まされながら少年は言った。真っ白だった顔に少しだけ血の気が戻っている。彼の呼吸が楽になるようにわたしはその背中をさすった。

「なんで通報しなかったか?」

 少年は整った顔をしていた。きちんとケアをすればそれなりの家庭の子息に見えるかもしれない。彼をいちばん損なっているものは歯だった。手入れの悪い、並びの悪い歯列。

「娘がいるって言ったでしょ。あなたと同じ歳くらいの」
「おれは子供じゃない」
「せいぜい十九歳でしょう? 大人から見れば十七歳も十九歳も同じ」

 年齢は図星だったらしい。少年は何も答えなかった。

「楽になってきた? また吐きそうだったら教えて」

 物問いたげな視線。わたしの親切を訝しみ、動揺している。感情を言語化することができずに、彼はただされるがままになっていた。

「薬は持ってるの?」

 沈黙。持っているわけがないと気づいた。病院に行き、診察を受けたことなど人生で一度もないのかもしれない。

「むかし、同じ発作の人を知ってた。薬を処方してもらえれば楽になるよ」
「金持ちと一緒にすんな」

 だいぶ呼吸が整ってきている。四秒吸って一秒止める。そして吐きだす。これを彼に教えたのは誰なのだろう。

「うちは金持ちじゃない」

 ラベンダーとサーモンピンク色のベッド。ストロベリーの柄のクッション。ライトブルーのテディベア。そこに横たわる少年は強盗の才能がない。

「狙うなら向かいの家にすれば良かったのに。運がないのね」
「ちゃんと調べた」
「あぁ」

 それで分かった。彼がなぜわざわざこの家を選んだのか。

「情報の精度が低いね。うちは夫の一族とは関係ない。あの人は勘当されてるから」

 少年の身体がまた震えだす。汗ばんだ細い背中。手首に巻かれたブレスレットのことを思い出した。ラバーズラバー。永遠の愛を誓い合う、若い恋人たちの。

「なんて書いてあるの」

 少年の気を紛らわせるために訊いた。手首を指さすと、彼はそれを袖に隠した。

「お互いに書き合うんでしょ。娘も持ってる」
「娘はどこにいんの」
「寮」
「寮? 学校の?」
「そう。ちょっと離れたところのハイスクールに通ってる」
「頭いいの?」
「ふつうかな。勉強よりも彼氏に夢中みたい」
「いいね」

 あまりに素直な反応だったので、今度はわたしが動揺した。懸命に呼吸を整えながら、少年は娘の部屋の天井を見ている。蓄光シールの星が散りばめられた天井を。

「いいね、そういうの」

 夢見るような口調だった。わたしの心の奥底で、何かが割れる。破片は心臓から胃のあたりに散らばり、わたしは痛みに目を伏せた。

          *

 わたしの唯一の身内は獄中死した。それはわたしがこの生活をはじめてすぐのことだった。娘が生まれ、環境の良い街に引越し、すべてをやり直しはじめた年の春。いつものように匿名で差し入れをしようとして、わたしはその事実を知った。受刑者同士の喧嘩のはての殺人だった。

 わたしは自分がどこから来たのかを知らない。血縁であったかどうかも怪しいその男だけが、わたしの親族のすべてだった。最後に彼を見たのは十五歳のときだった。裁判所で被告人席に座る彼は笑っていた。わたしは別室のモニターでそれを見た。

 聞こえるか?

 彼はわたしが見ていることを知っていた。もう二度と会えないということも。彼はわたしの名前を呼び、笑いながらたったひとつのことを告げた。

 逃げろ。

 なにから、とは言わなかった。けれどもわたしには分かった。過去からだと。彼を含むすべての過去からだと。

 わたしには記録がない。彼がわたしの人生のすべてで、履歴だった。十五年間、彼はわたしを教育した。ひとりでも生きられるように。犠牲者ではなく捕食者になれるように。彼は知っていたのだろう。わたしがやがてたったひとりで放り出される日がくることを。

 少年はかつてのわたしだった。絶望に歪み、帰る場所を持たない、野生の目をした獣のような子供。暗闇の片隅に生息する、屍。

           *

「学校は行ったの?」
「ついてた。施設に。逃げたけど」
「孤児なのね」

 頷く。珍しいことではない。この国は子供を育てるのには適していない。わたしが少女だったときからずっと、下層の子供たちは遺棄されつづけている。

「どこの施設? この辺り?」
「なんで」
「わたしもいたから」

 タイミングを見計らってまた水を飲ませる。生ぬるい水。決して冷たい水ではだめだ。わたしはそれを知っている。

「あんたが?」

 唇の端からこぼれた水を、少年は手の甲でぬぐう。グローブを外した手は幼く、荒れている。割れた爪とささくれた指先。細かい切り傷。

「そう。この辺りじゃないけど。もっとずっと遠くの、ここよりもひどい場所」
「ぜんぜん見えない」
「生まれ変わったから」
「どうやって」

 どうやって? わたしは自分に問いかける。どうやって、わたしはここまで来たのだろう。どうやってわたしは今のわたしを手に入れたのだろう。

「闘った。利用できるものはぜんぶ利用して、生き延びた」

 そう。わたしは闘ったのだ。そして今も闘いつづけている。もう若くはないのに。わたしはまだ、少女の頃と同じものから逃げつづけて、闘いつづけている。

「すごいな」
「あなただってできる」
「おれは」

 眉をひそめる。目を閉じて、開ける。

「あんたみたいにはできない。おれはおかしいから」
「恋人がいるんでしょう?」

 誰かが彼にブレスレットを贈ったのだ。チープな水色のゴムバンドを。願いを込めて。

「ひとりじゃないなら何とかなる。わたしが証人」
「ひとりの方がよかった」

 少年は深く息を吐きだし、言った。口調は穏やかで、ほとんど独白のように聞こえる。どうして? 訊き返すと、自分の言葉を否定するように首をふる。

「ひとりなら逃げられた。ずっと遠くまで」

 彼はもう一度息を吸う。四秒。二秒ためて、それから吐きだす。大丈夫そうだ。

「おれはもう、あいつに捕まったから。逃げられない」

 少年は唐突に笑いだした。肩を震わせて。まるで泣くように。

「通報してくれよ、どうせなら」
「捕まりたいの?」
「ゆっくり寝たい」
「疲れてるんだね」

 少年の肩に手をかける。かつて娘にしたように、そのまま少年の身体を抱きしめる。ゆるやかに。締めつけたりしないように、そっと。彼は抵抗しようとした。反射的にわたしを押しのけようとして、それからなぜか、身体の力を抜いた。

「寝なさい」

 娘に言う口調で言った。抵抗をやめた少年の身体をベッドに横たえ、サーモンピンク色のブランケットをかける。

「寝なさい。心配しないで」
「いいね」

 少年は並びの悪い歯を見せて笑った。見ていると窒息しそうになる、傷口のような笑みだった。

「……生まれ変わったらさ」

 半分閉じた瞳。年齢に釣り合わない壮絶な疲労が、彼の意識を混濁させてゆく。

「産んでよ、あんたが。おれのことも」

          *

 あの悲劇からもう十八年が経つ。

 十八年という時間の経過をわたしは上手に処理できない。それは長いのか、短いのか。わたしたちは遠くまで来たのか。それともまだ同じ場所でさまよっているだけなのか。わたしたちは成功したのか。はたしてこれは成功と呼べるのか。

 覚えているのは血まみれのドレス。それは高価でシックで本当は彼女の趣味ではなかった。悲鳴。泣き声。サイレンと赤色灯。

 彼女について、いくつもの質問をうけた。誰も彼女が誰なのかを知らなかった。精度の低い偽IDに記載された名前で彼女は呼ばれた。そして刻まれた。その名前は世界中のニュースで配信されて、彼女が憧れたセレブリティもその名前を呼んだ。

 彼女について知っていることは、誰かに話すべきことではなかった。だからわたしは口をつぐんだ。彼女の所持品でわたしが手元に残したものはひとつだけ。アクアマリンの石がついた指輪だ。彼女はそれを大切にしまっていた。遺骨のように。

 彼女の残骸は特別に配慮された。記録になかった存在は記録に残された。彼女が望んだ名前のままで。彼女は地中に埋められ、花で飾られた。わたしは、わたしたちはそこに行かなかった。彼女はそこではなく、わたしたちと共にいたから。

「ねぇ」

 目の前の少年は眠りにおちる。警戒することを諦め、戦場を放棄し、自ら捕虜になる。不安定だった呼吸が落ち着きを取り戻し、ひとつのリズムを形成してゆくのをわたしは見守った。

「秘密を教えてあげる。あなただけに。だれにも言ったことがないやつを」

 完全に意識を失った少年に触れる。ブランケットからのぞく彼の手首。袖をまくりあげて薄汚れたブレスレットを見た。レーザーで印字された文字。アリー。はじめて知る、少年が愛する恋人の名前。

「娘とは血が繋がってないの。わたしの胎内に入れたとき、彼女はもう完成してた」

 かすかに開いた唇から見える歯。変色して不揃いな、彼のヒストリー。

「娘はね、二回目の人生なの。わたしと夫が作り直した。わたしたちはやり直そうとしたんだよ」

 ブレスレットの裏側。そこに印字された願い事を見る。少年が愛する少女の願い。ブレスレットが切れるとき、その願いは叶うのだという。

 大丈夫になりますように。

 印字されていた言葉はそれだけだった。わたしはそれを、聖書の一説のように繰り返す。

「大丈夫になりますように」

 少年の恋人。おそらくは娘と同じ年ごろの少女。彼女の願いはそれだけだった。リッチになることでも美しくなることでもない。少年との永遠の愛ですらない。彼女はただ大丈夫になりたいのだ。素晴らしくなくてもいい。何もかもがオーケーな状態になりたいのだ。

 わたしはしばらく少年の手首に触れていた。その若く不安定な血潮を感じ、そこにかつての自分自身の亡霊をみた。

「あなたはまだ生まれてなかったのかな」

 あの事件が起きた日。きらびやかな会場が血で染まったあの日。すべてが終わり、そして始まったあの日。

「恐ろしいね、何も変わってないのよ。わたしがあなたくらいの年だった頃から」

 眠りにおちた少年は水死体のようだった。かなしみに沈み、恐怖と不安に侵されて浮腫んだ、白く無垢な亡骸。

「世界は絶望にあふれてるの」

           *

 娘を胎内に宿したとき、わたしはたったひとつのことを心に誓った。

 わたしはもう、これ以上誰にも、何にも自分自身を開け渡さない。わたしが自分の肉体を提供するのはこれが最後だ。わたしはすべてを夫と娘に捧げる。わたしが持っているもののすべて。魂も心臓も皮膚も骨も。わたしに起こり得るすべての未来も、埋葬した過去も。

 もう一度。

 わたしは生き延びる。現実世界という名のこの戦場で。牙をかくし、記憶を封じ、丁寧にハンドメイドした仮面をつけて。

 あなたとともに。

 わたしはここにいる。

第二話

第三話

第四話

第五話

第六話

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