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居場所

ピン芸人の頃から気になっていた。

うつむいて一度も正面を見ることなく、ひたすら繰り出す自虐ネタ。男前の立ち姿と、情けないほど不運なストーリーとのギャップについ笑ってしまう。声にも哀愁がある。

それにあのBGM。昔観たイタリア映画の挿入歌で、レイモンド・ラブロックの顔以外、映画の内容は忘れたけれど、今でも暗唱できる懐かしい曲だ。うら寂しいネタにもピッタリで、選曲に親近感が湧いた。

Che vuole questa musica stasera…♬

やがてバラエティにも顔を出すようになったが、心許ないやり取りをハラハラ見ていた。そういう場が合わない人なのは明らかだった。

いつのまにかテレビから姿を消し…

何年か経って、ソロキャンプの森で自然体で動き、語るヒロシが現れた。

無口で不器用に見えた彼が、嬉々として火を起こし、うまそうな食事を整え、機能的でカッコいいキャンプ道具を披露する。一夜明けてゴミ一つ残さず撤収する姿は清々しい。

居心地の悪さを感じていた場所を離れ、自分が好きなことを続けていたら、ひとが集まってきた。

"ぼっち"を好むのに、周りが放っておかない。同好の士達とのキャンプもなかなか楽しげではないか。ここが好き、これが好き、をやり続ける彼を、彼を面白がる人々を、ホッとして見ている。

あの舞台にも時には立ってほしいと思うけれど。


週刊紙のグラビアに、新婚夫婦の車中の横顔があった。皇室を離れた新婦は、もう笑顔で手を振ることはない。それにしても、マスク越しにも緊張が伝わる、哀しい目。

自由を求めて、幸せを希求して、数年に渡るメディアの揉みくちゃを耐えに耐えて、自分を通した後もなお、こんな寂しい目をしている。

失敗だったらやり直せばいい。ここではないと思ったら離れればいい。国や制度や家族の問題をひとりに負わせるのがそもそも理不尽だった。

食べていけるのか、など大きなお世話だ。

いつか自分らしい居場所を得て、警護もなく、カメラにも追われず、自分の足で颯爽と歩く日、お身内がホッとされる日が来たら、風の便りがそっと伝えてくれればいい。

もう、放っておいてあげませんか。


昔、女子高で勤務していた頃、何かの折りに部活の部員の一人と買い物に出掛けたことがある。お下げ髪に丸いメガネの目立たない生徒だった。

今でも眼に浮かぶのは、話を交わしながら気付いた彼女の表情の変化。門を出て、見る間に生き生きと歩き出した彼女の顔を、思わず覗き込んでいた。誇張ではない。

彼女が笑って言った…

「わたし、学校での自分と、外での自分と、どっちが本当の自分なんだか、分からないんです。」

同世代の中で、身の置き所を探しあぐねていた時期だったのだろう。その日一緒に歩いたのは、それまで気付かなかった、感性豊かな、魅力的な若者だった。

名前も覚えていないし、その後も知らない。

誰もが、大人になっても、歳を重ねても、考え続けるのだろう。何をするのか。何をしたいのか。自分の居場所はどこか。

監督のオファーを受けて絶好調の新庄節に吹き出しながら、遠い記憶の彼女を思い出した。







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