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あの川の向こうに

「あれ?」

気がつくと僕は大きな川の中洲にいた。
川幅があまりに広いので、ここからは両岸が見えない。
まるで海のようなこの風景が川とわかるのは、海の──独特の塩っぱく生臭い──においがなく、一方向のゆったりとした流れの、そう深くない場所に、きらめく砂利が一様に広がっているからだ。

「うん、川だ」
中洲の端に駆け寄りその水を舐め、確信する。

なんて穏やかで清らかな場所なのだろう。
サラサラというせせらぎと、遠くで鳥の鳴く声がする。
ああ、静かだ。音がするけど静かだ。
水辺にしゃがみ込んだ僕は、そんな矛盾を含んだ感覚にしばしの間浸った。

どれほどの時が経っただろうか。

「こんにちは、ビオ!」

背後から幼い声がかかった。
そうか、僕はビオという名前だったっけ、と振り返る。
栗色の髪を風になびかせて少女が足取りも軽くやってきた。

「はじめまして。どうして僕の名前を……?」
「私はセイ。ここで一人で暮らしているの」

少女は僕の質問を遮って話し続ける。
「ときどき舟が通るのよ。たいてい、おじいさんやおばあさんが乗っていて食べ物や服を分けてくれるんだ。ほら、来た!」

なるほど、スルスルとやってきた舟には年配の女性が乗っている。
微笑む彼女の周りには抱えきれない量の花が。
船頭はいないが動力もない、奇妙な小舟だ。

「こんにちは。お嬢ちゃん、お兄ちゃん。今日はいい天気でよかったわ、一回きりの舟出だもの。これ、あげるわね」

特に綺麗な数本の花を見繕って手際よく束ねてくれた彼女の舟は、再び進んでいった。

花束を手に取った瞬間のこと。
ここに来るまでの経緯が僕の頭にブワッと湧き上がってきた。
意識が飛ぶほどの痛みの残像。

冷や汗をかく僕をよそにセイが話し始めた。

「また会ってお礼を言いたいけど、同じ船は通らない。ときどき突然ここに来る人はいるよ。何も持たず、暗い顔で。ビオみたいに」

「向こう岸に行ったことある?」

「ううん、お願いしても乗せてもらえない。どんなところなのか誰も知らないみたい。でも、知らないほうが面白いでしょう?」

セイは微笑んで僕の頭をなでた。

次の瞬間、病院のベッドに僕はいた。
傍には花束が飾られている。

「知らないほうが面白い、か」
数日後、僕はそう呟いて病院を後にした。

川のせせらぎを見るたびに僕は思い出す。
あの清らかな中洲できっとセイは元気に過ごしているのだろう。
僕が川の向こうに行く舟で──今度は穏やかな顔で──通りがかる日はまだ先だ。

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