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【小説】Strange Brew

 ぼくは、人に言えない秘密を持っている。といっても、少し法を破っただけだ。みんなからは、馬鹿にされることかもしれない。ムショに入ったとしたら、きっとぼくは真っ先にいびられ役を押しつけられることになるだろう。自分の食べるものはすべてボスに奪われて、裸で踊らされて、他の囚人たちのサンドバッグになるような、そういう具合の秘密なんだ。
 そうだ、きみのその飲んでいる紅茶はうまいか?程よく深みがあるよね。沸騰した湯に沈めると、たちまち茶葉から赤みが溶け出していく。赤みによって描かれる幾何学模様が美しく、ぼくなら何時間でも眺めていられる。極めつけには、香りだ。そこいらに売っている紅茶というのは、味を探究しているから香りにはあまり踏み込んでいない。味に力を入れるのは良いことなのだが、高級品と呼ばれるにはやはり香りだ。鼻を突き抜ける葉のにおいが、肺を満たしていくこの快感に勝るものはない。
 実はその紅茶こそ、国家のお偉い方ご用達の最高級茶葉から抽出したものなのさ。こんな高いもの、まさかぼくが買うと思うか?まあ、詳しくは言わないけれど、ぼくが飲んでみたいと思ったから、そうしただけのこと。うまいので、きみにも飲んでもらっているわけだ。

 

 さあ、身体も温まってきたことだろう。ぼくの話でも聞いていかないか。

 ぼくにはかつて、意中の女がいた。ぼくが学生だった頃だ。大学に入って、けれどうまくなじめなくて、大学の最寄りの駅前にある半地下の酒場になんとなく入り浸っていた。親不孝者のぼくは、親の送ってくれた金をここでほとんど使っていた。
 この半地下の酒場は、かび臭いにおいと木の樽の中に入ったウイスキーの醸成されたにおいが混じった、独特な雰囲気を持っていた。街のならず者を受け入れてくれる感じだ。そうした雰囲気にほだされて、ぼくは仄暗い顔をしながらウイスキーを三杯くらい飲み、煙草を吹かしていた。いまでは考えられないかもしれないが、ぼくのような若造のならず者も、まっとうな道には二度と戻れないやくざ者も、同じ卓を囲んで飲み明かしていたことがあったんだ。そこでは、みんな一人なんだ。一人。それが心地よくて、みんな幸せに堕ちていたんだよ。本当によかったね。
 
 本当によかったというには、その意中の女というのも必ずいなくてはならない。当時のぼくは、彼女に会うためにここに来ていたというのもある。
 彼女は、決して美人といえるような人ではなかった。厚ぼったい瞼に濃いアイシャドウ。水色、黄色、緑色。とにかく奇抜だった。それに、その奥にある瞳はどんな色をしていたと思う?なんと、鉛色だ。信じられないよ。いま思い出してみても本当にそうだったか不安になる。けど、絶対に鉛みたいな濁った色をしていた、絶対だ。そんな目をしている彼女だから、いつもけだるそうなんだ。よく遠くを見つめて、煙草を吹かしていた。ぼくはそんな彼女にいたたまれなさを感じて、ある日ライターを貸してあげようと声をかけた。それが始まりだったような気がする。鉛の瞳に、ライターの火が灯る。そのときの燦然とした輝きを忘れられない。ぼくはそういう男だった。
 だけど、ぼくと彼女の関わりはそれくらいしかなかった。柄の入ったライターに火を灯して、彼女の咥える煙草にそっと近づく。シガーキスとはまた違うが、それ特有の胸の高鳴りはたしかに、ぼくのなかで激しさを増していた。そうして、煙がぽうっと吐かれると、彼女は真っ赤なルージュを煙草に浮かべながら、ヤニにかすれた艶やかな声で
「どこかへ行ってくれる?」
 と言い捨てるのだ。ぼくはそれだけでよかったんだ。彼女に煙草の火をあげられるのだから。

 酒場には、ときどき大声で怒鳴って店を荒らすやくざが現われた。借金取りなのだろうか。客の首根っこをつかんで殴ったり、酒瓶でやっぱり殴ったりする。挙句の果てには表に連れていかれることもしょっちゅうだった。だいたい、周りにいたやつらはその様子をちらっと見て「ああ、またやってるな」と呟くくらいで、またすぐクスリを鼻からスウっとやる。ぼくは腰抜けの若者だったから、そのときだけは酒が進まなくて、いつかこちらにグラスやらなんやらが飛んでこないかが気になって見ている。よく見てみると、彼女が親しげにやくざのひょろりとした男と話していたんだ。ぼくはびっくりした。彼女、もしかして裏の人間なのか?そう思うと、仮にもぼくは一般人の側であることをわきまえているつもりだから、そこになんだか見えない壁を感じてしまってね。けれど、彼女の美しさにもう惚れていたのもまた事実。その日は心臓をどくどくさせて帰ったことを覚えている。

 その夜、ぼくは変な夢を見た。ウイスキーの飲みすぎだったのか、夢見がひどかったんだ。
 よく星の見える夜だった。月の光が真っ昼間のように明るく、影が伸びる。その伸びていった先に、英国スーツを着固めた屈強な男が数人、立派な城の前に立っているんだ。何かを護衛しているようだったね。海の向こうにある国の姫が住んでいる城なのだろうか、と思った。明らかに人のために雇われた有り様だった。けれど、城の門がギイとでかい音を立てて開くと、人の乗っていない馬車が入っていった。ぼくは直感でわかったんだ、あれには紅茶の葉っぱが飲みきれないほど積まれていると。あれが立派な城に入っていくということは、きっと相当良い茶葉なんだろう。
 そのとき、ぼくは一瞬にして耐えがたい欲望に襲われた。どうしてもあの茶葉をつかった紅茶を飲んでみたい、一度頭に思い浮かんだだけで、ぼくは妖怪に取り憑かれたみたいにそのことしか考えられなくなってしまったんだ。これが叶わないなら、もはや死んだほうがマシ。そんな気持ちに連れられて、ぼくは屈強な男たちの前に立った。夢の中のぼくは、腕っぷしが強かった。ひとたび拳を握って前に突き出すと、ガタイの良い肉の塊が吹っ飛ぶんだよ。これが爽快。気持ちいい。夢っていいよな、なんでも好きにできちまうんだから。
 そうして、伸びきった男たちの奥にある香りの良い茶葉を一掴みいただいて、城のすぐ近くにある(ことになっている)ぼくの秘密基地に駆け込んだ。ひび割れたコンクリートの壁はぼくの家によく似ていた。そこで待っていた彼女に、ぼくは紅茶を淹れてやったのさ。香りが一際たっていた。彼女は最高級の紅茶を一口すするんだ。
「私たち、間違っていたんだわ」
 はっきり覚えている。ぼくは夢のことはだいたい忘れてしまうタチだけど、彼女はたしかにそう言ったんだよ。
 何が間違っていたんだろうね?ぼくには分からなかった。彼女のために、この紅茶をふるまってやったことだろうか。強奪が悪かったのか?それとも、大学にも行かずにだらだらと酒場に入り浸るぼくのだらけきった怠惰な生活のこと?それとも、彼女がやくざの女として裏社会で人を殺して生きていること?そういうぼくたちの生活ひとつひとつが間違っていたということ?

 そういう夢を見たら、どうにも具合は悪くなる。目覚めて、灰色のコンクリートが剥き出しになった壁や天井をぼーっと見る時間は、ぼくを精神的にいたぶってくる。少し吐き気がしたほどだ。なぜかって?現実と直に向き合った気分だったからだ。
 雨が降る夜だった。ぼくはたまらなくなって、古アパートの共用部にある黒電話の、ほこりがたまったボタンに指をかけて回したんだ。誰でもいい、誰かそばにいてほしい、と脂汗を浮かべて電話をかけたら、通話口の向こうにいたのは彼女だった。要するに、ぼくのそばにいてほしい人は、彼女だったというわけだ。
 彼女はこんなに夜遅いのに、ぼくの誘いをとても嬉しがって、三十分も経たないうちに部屋へやってきた。しかし、こんなに良いタイミングだというのに、部屋にはあいにく酒などなかった。仕方がないので、代わりに湿気た紅茶を淹れた。湯気がたつ。彼女は目を伏してそれを飲んだ。水色のアイシャドウが薄汚れているのがわかった。
 そのうち、彼女は踊ろうなんて言い出した。なけなしの金で買ったレコードを、彼女は慣れた手つきでがちゃがちゃと設置し始めた。もう遅いから、とぼくは針を落とそうとする彼女を制しようとしたが、その勢いは断固としている。意思のようなものを感じるんだ。絶対にレコードで音楽をかけてやろうという意思。くだらないな、と言いかけたけれど、彼女のその様子を見るに、ぼくの言葉なんかで汚してはならないと思ってしまうくらいなんだ。レコードからはぼくの気に入っているブルースロックが流れてきた。
 そして、彼女はぼくの手をとって踊り始めた。ぼくも下手なりに、踊る。勝手に身体が動く。二人とも、酒場にいるときみたいに無口でさ。あの夢のことを聞いてみたい気持ちもあったんだけれど、いざぼくが口を開こうとしたら彼女、指を唇に当てるんだ。そうして、ぼくらは夜通し無口なままで踊り明かしたよ。このときのことは、きっと長い長い旅の思い出のひとつになりそうなんだ。どうしてかって?その日以来、彼女と会うことは二度となかったからさ。風の噂で、ひょろひょろのやくざの男に頭を撃ち抜かれたんだとか聞いた。あるいは、外国の要人の嫁にもらわれていったとも。結局、うやむやになってしまったもんだから、ぼくは彼女を忘れようと酒場に通うのをやめたんだ。本当だぜ。だけれど、一晩踊り明かした相手のことなんだ、忘れられるはずがない。そういう日は、この香り高い紅茶をすすって思い出とともに浸ってみたりしてね。……どうだい、ぼくの話は。つまらないとは言わせないぜ。
 ……さあ、時がやってきたみたいだ。きみ、それじゃあ、ぼくの代わりにあの紅茶を強奪してきてくれないか。そろそろ馬車が来る時間だ。

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