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やらかした人の作品を楽しんでもいいのか

こんばんは、瓶宮です。

推しが燃えた……。

界隈の中で遠くの人がなんか話題になってんな、というのはちょくちょくあったんですけど、普通に好きな俳優が炎上していて、こんな自分事のような感覚になっているのはゲス不倫以来かもしれません(ゲスの音楽好きだったので……)。
ちょうど、恋人と「好きなコンテンツが燃えているとき、自分はどうすればいいんだ」という話をした翌日に、私の好きなティモシー・シャラメが炎上してしまいました。最悪!!!
というのも、海外のコント番組に彼が出演したところ、その内容に今やっているイスラエルの戦争を揶揄するようなものが含まれていて、それはジョークじゃ済まされないでしょうという炎上でした。

ごもっともだ。人の命が失われているよというのに、高みの見物みたいに笑うのはまあだめだ。炎上といっても、巻き込まれのような感じではなく、ガッツリティモシー側にも非があるように思われます。番組の権力がでかいゆえだんまりを決めるしかないとかもあるのかもしれないけど……。それにしても、悪いものは悪い。

ただ、ここでひとつ、問題が浮かび上がってくるんです。
やらかした人の関わる作品を楽しんでいいんですか問題。

正直、私はこれからティモシーの出演するウォンカとかDUNEとか、観たいんですよ。好きな俳優である彼が出演するからという理由もありますが、普通に作品としても気になっているしどんな映画なんだろうってたのしみにしていて。しかし、必ず「問題を起こした人の作品なんて見ません。ありえません。加担してるのと同じです」という意見も現れますよね。つまり、作品を「観る」という行為に意味が伴い始めているということです。

バービーのときもそうでした。向こうのバービー広報部が原爆を軽く見ているような言動をして、とても大きな話題になってしまっていました。Twitterや、Filmarksといったクチコミサイトで、公開前から「見ません」という文字がたくさん生まれていました。そういう価値観を持つ人々が関わる映画は公開すべきではないという意見がたくさん……。

その意見もわかるんですけど、作品自体に罪はないような気がしています。今回のコントは明確な意図を感じるので含めませんが、たとえばバービーは原爆を揶揄する意図を持った部分が作中にありますか?と言われると、別にないんですよね。最初からその意図で作られているわけではない。多少は監督の思想が入っていたとは思いますけど、めちゃくちゃ倫理に反しているものではなかったし、それは立ち止まって考えてみればだめかどうかの判断がつくはずです。

ただ、劇場で観ますよとかそういった金銭の関係が発生する以上、そのズレた価値観を応援しているというふうに見られてしまうのも避けられません。違うんだ!作品を楽しみたいだけで、反倫理には加担しようという魂胆は1ミリもないんだ!マジで!本当に、これって両立できないものなんでしょうか。作品自体に意図がなくても、キャストあるいはスタッフに反倫理の人間がいたら、その作品がどんなに人を感動させたりしても完全に否定されるべきものに落ちてしまうことは仕方ないのだろうか。けど、もしその被害者がその作品を見たら?っていうのを考えると、また手放しに作品に罪はない!!!と大声で言えるものでもなく。でも映画たのしみだし観たい。

自分とは違う個体である人間を推すということには、やっぱりそういった価値観のズレが現れるのは必然です。そのズレが道徳や倫理から反することだってままある。そうしたとき、その推しが関わるコンテンツや文化との交わり方についてどう考えるべきか、ずっと考えていかないといけませんね……。今のところ、個人的には事態をよく見定めて考えたうえで悪いことには悪いよと声を上げたいし、けど作品は作品として完全に切り離して観ようかなというところではあります。正しいかは分からないので、いろんな知見を聞いて行動を変えたり変えなかったりしようと思っています。

余談なんですけど、ティモシーのインスタの大荒れコメント欄に「Do better」というコメントがついていて、この言葉にこちらも少し気分が落ち着くことができたかなっていうのがあります。「うまくやりなさいよ」、本当にそうだ。頼むから考えてうまくやってくれ〜。ティモシー……。あ〜〜〜。


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