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どういう規約がいいんだか。

2023年6月23日のツイートより

ハラスメント関連の諸問題について、ここ数年、なんとか劇団としての理念を文章化したいと行動しているんですが達成できておりません…。内部的にはコンプラ委員の設置や、「帰りの会」実施など、自分たちなりの独自の取組を実行してきたのですが、理念を公開、という段階に至れずでして…。ただ、今夏にはなんらかの形にしたいな、と思っております。既に様々な劇場/団体、個人がハラスメントについての基本姿勢を示しておられるので重なる部分も多いでしょうが、自分たちなりの指針を示せればな、と。

ぼんやり考えているのは、ハラスメント問題についてのポジティヴ・リストとネガティヴ・リストをそれぞれ別に提示できたらいいんじゃないか、ということ。つまり、問題対応のために作っておくべきフロー、共有すべき情報、組織の体制、などなどの積極的にやっておくべきことのリストと、これはしてはならない、それをしてはならない、という禁止リストとを別個に明示するべきなんじゃないか、ということを考えています。

さらにそれらの規約とは別に、理念として集団の持つ目的を掲げたい。もちろん最終目的は「面白いものを作る」というシンプルなものでいいんですが。どうもそれが無いともはやうまくいかないような気がしているのです。

こういう話は慎重に議論しないといけませんね。もちろん、僕としても傷つく人や嫌な思いをする人は可能な限り減らしたい。無くしていきたい。心からそう思います。だけど、それは集団の「最終目的」にはならないのではないでしょうか。「なんとしても面白い作品を生み出したい」という目的と、「絶対にその過程で傷つく人が生み出されてはならない」という禁止事項。これは恐らく、ルールとしての方向づけが違うはずです。

バスケでもサッカーでもいいんですが、例えば「ゴールを決める」みたいなシンプルな目標があって、基本的にはそれに向かって「なんでもあり」という自由な発想が担保されている。その上で、絶対に相手を蹴ったらダメだよ、とか、禁止事項が乗っかってくる、というイメージ。は、どうでしょう。自分が今、すごく感じているのは、現在もハラスメントの被害を受けている方は数多くいて、本当に急いで自己変革を含めた抜本的な対応をしなければならない緊急性が高い問題だ、という危機感と同時に、表現の中でさえ他者を傷つけることへの強烈な恐れが育ってきている、という不安です。

詳細については一切述べるつもりはありませんが、この半年余り、自分は極めて当事者性の高い位置で被害者の側の立場からこの問題と、つまり、加害者側の方々と向き合ってきました。その時間が、いかに被害者側が弱い立場にいるのかということを嫌というほど痛感させられる時間であったことは間違いありません。その上で、僕は思うんです。絶対に許してはならない/ゼロにしなくてはならない/撲滅しなくてはならない部類のハラスメント行為と、作品における表現の多彩さ、あえて言えば、表現内部における激しさ、攻撃性は別個に追求されるべき課題なんじゃないかな、と。

単純な話、「絶対に誰も傷つけないぞ」というマインドのままで俳優として舞台に立っていたら、テネシー・ウィリアムズの戯曲で描かれるような激烈さ、攻撃性は表現できないぞ、と思うんです。当然ながら、それとこれとは話が別です。そう、確かに全然別の話なんです。ただ、同じ人間が、同じような時間帯の中でふたつのルールにまたがって行動をしなければならないことの難しさは確実に存在すると思うんです。攻撃的な、あるいは、社会規範を逸脱「できる」ようなマインドが、稽古場の安全を破壊してはいけません。また、安全/安心、平穏無事を追求するマインドが稽古場から冒険心や芸術的な追求を阻害してもいけません。この両立は極めて困難なはずです。だからルールの形も、それとこれとが別個になってるべきだと思うんです。


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