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50歳、最後の週末に

9月11日月曜日、遂に約束を果たした。

「いつか二人で富士山に登ろうぜ!」

中学からの親友と15歳の時にした約束。
およそ35年の歳月を有することになった。
あの頃は、ジャッキーチェンや北斗の拳の影響もあって、少林寺拳法や空手が大好きで、よく二人で道場の厳しい修行を終えた後も、公園に行って修行の続きを反復したものだった。
体力にはそれなりの自信があったことで、日本一の標高を誇る富士山に、ひょいっと軽々と登って来ないか?というようなことだったと思う。

しかし、中学を卒業した後、お互い別々の進路となり、連絡はしだいに途切れていった。社会に出ると、仕事に忙殺される日々に友よりも仕事を優先することを当たり前のように選択し、いつしか友の存在も過去の想い出に変わっていった。
地元金沢に帰る時、思い出したように彼の家を訪ねることもあったが、タイミングの合わないことがほとんどだった。そうして、歳月は瞬く間に過ぎ去っていった。

昨年、偶然彼のFacebookの投稿を見て溜息を漏らした。彼の母さんの死去を告げるものだった。
ガキの頃、毎日のように家にお邪魔し、週末はほとんど泊まりに行っていた私にとって、母さんの死去は辛いものだった。

その年の11月、どうしてもお仏壇に線香をあげたくて、彼の自宅へ向かっていた。連絡をしないで行ったのは、どうせ彼がいなくても彼の奥様や子供がいれば、仏壇に手を合わせることが出来ると思っていたからだ。
朝9時過ぎ、彼の家を訪ねると、ひょこりとドアを開けたのは彼だった。

「おー、おるんやな」、私は思わず言った。
「おるぞ、ご無沙汰やな」、彼は、はにかみながら笑った。

早朝のお邪魔にも拘らず、笑顔でコーヒーを出してくれた彼は、いくらか髪が薄くなったが、顔に刻まれた年輪は紛れもない戦いの傷跡のようにみえた。
太陽の光が部屋に差し込み、穏やかな時間が過ぎていった。私たちが離れてから30年以上の歳月が経ち、想い出と化した友との懐かしいひとときに、込み上げるものがあった。

「もうそろそろ良いんでない?がんばるの、また二人でつるもっさ」
どちらが言ったかは覚えていないが、二人とも同じ感慨があったにちがいない。

「覚えとるか?15歳の時の約束?」、わたしが尋ねると、彼は食い気味に応えた。

「富士山か?」

彼は覚えていた。

「来年、行かんけ?」

そうだ、私たちの存在は、まだ想い出ではないのだ。
彼の母さんが、断ち切れていた友との縁を、繋いでくれたのだ。お互いに歳を取ったものだ。15歳の約束を50歳に果たす。そういうこともある。



今年に入り、少しずつ連絡を取るようになっていった。
日程調整、富士山のルート、持っていくもの、必要な道具や装備、身体の作り方。
なにせ、もう体力には不安しかないくそジジイである。
体力、脚力、精神力、高山病、天候、どれもこれも不安材料なのだ。近しい仲間やお客さんからは、富士山を完全に舐めてると叱られることもしばしばである。
私は通っているパーソナルジムの担当者に事情を説明して、下半身重視の内容に変更してもらい、粛々とメニューをこなしていった。
彼は、休みの日には近場の山にアタックをかけながら身体の調整をしていたようだ。

そんな中、彼は金沢から、私は東京から。
私たちは前日に山梨入りした。

明日の天気予報は曇り、微妙だ。
どんなに意気込んでも、天候は変えられない。
最悪、温泉旅館に泊まり、酒でも酌み交わしながら夜通し語り合うのも悪くはない。
だが、それではいけないような気がしている。

9月11日を選んだ理由は、富士山の閉山日が10日だからだ。開山中はマイカー規制があり、富士吉田5合目までは車では登れない。マイカー規制が解除される閉山日の初日が11日というわけだ。閉山すると、すべての山小屋が閉まるわけで、もちろん途中にある宿泊施設なども使えない。つまりは、1日で登って下りて来なければならない。

プランはこうだ。
5時30分登山開始。山頂には休憩を含みながら12時30分には到着していたい。つまり、7時間後には山頂にいたいのだ。頂上で1時間ほど休憩を入れ、下山に入る。下山には3時間ほどかかるようだから、戻りは16時30分が理想となる。これは、あくまでも平均的登山者のデータによるものだから、我々が一体どの程度のタイムで登れるのかは、わからない。或いは、まったくトンチンカンで身の程知らずなタイムスケジュールの可能性もあるのだ。しかも、途中の体力の枯渇、高山病などのアクシデントの事は考えていない。不安しかない。
そんなことを考えながら、私たちは、前日の20時に富士スバルスカイゲートに陣を取り、21時には車中泊でゆっくり身体を休め、朝を待った。

富士スバルスカイ、ポールポジション

朝5時30分、天候は晴れ。気温12℃。富士吉田口5合目。スタート地点とは言え、すでに標高は2300Mで、空気は市街地よりもかなり薄い。標高に身体を慣らさなければ、知らないうちに高山病の餌食になっている。
間近に見上げる富士山の壮大さは圧巻で、さまざまな人が、富士山を舐めるなよ、と言っていた意味が今更ながらに伝わった。

日の出前の富士山は巨大な怪獣のようで不気味だった。

富士山経験者の話によると、序盤で飛ばし過ぎると、必ず後半がもたなくなるから、逸る気持ちを抑えてゆっくりと歩かなければならないらしい。

5合目から6合目は緩やかな山道で標高差は90M。
30分程度で到着。リラックスをしながらウォーミングアップを兼ねて身体の不調を確かめながら歩を進める。

日出間近、美しい空色

6合目では煙草を一服し、汗をかいたので上着を脱ぎ、すぐに7合目に向かう。

石畳や砂利道が多かった道から、一気に様子が変わる。
葛折りの急勾配が続き、足場も悪くなり始める。
身体はまだ平気だ。脚に若干だが疲労感はあるが問題ないだろう。7合目は80分くらいで到着。
思っていたよりは悪くない。いや、むしろ良いではないか?これは行ける!と、この時の私は余裕すらあった。

煙草を吸う余裕がまだありました。

8合目を目指していたが、様子がおかしい。
脚がなかなか進まない。標高のせいか、息があがる。
空気が明らかに薄い。強烈な急斜面を一歩一歩踏み出すが、リズムが悪い。一気に体力を削られる。
見上げるとすぐそこにある8合目が遠い。
一気に駆け上がりたくなる衝動が湧き立つが、せいぜい10歩程度で後悔するだろう。
この7合目から8合目が1番辛く、1度目の心が折れたのはここだ。彼はというと、淡々と私の15メートル先を常に歩き、一向にペースは変わらない。さすがとしか言いようがないし、何より自分の調整不足を心底、恥じた。

笑顔は何処へ


なんとか8合目に到着するも、もう笑う力はない。
早急に体力の回復をはかる。水分補給、塩キャンディ、チョコレート。2700Mからの展望は、すでに眼下には雲海が広がりこの上ない絶景のようだが、私の目にはまったく入ってこない。いや、入れようとは思わなかった。
なぜなら、私はかなり重度の高所恐怖症なのだ。
引っ越しをする時は条件の中に必ず4階以上はNGだし、かつて息子と小さい頃に行った富士急ハイランドの観覧車から降りた直後、下痢になったし、レインボーブリッジを車で通る時は今でも緊張が走る。
迂闊だった。
迂闊過ぎたのかもしれません。
そうだ、ここは日本一の標高を誇る富士山じゃないか!
なぜだ、なぜ気づかなかった。
今更そこに気付いても、もうここは2700Mの雲の上である。あまりの凡ミスに、体力が枯渇する中、精神的にもダメージが刻まれた。
だが、先を目指さなければならない。
いざ、9合目へ。

絶景の雲海、私は少し距離をとり……

あいも変わらない葛折りの急傾斜が続く。
ここが高所であると自覚してしまった私の足取りの重さは増し、身体がふわふわとしている。途中、外国人登山者の2人がしゃがみ込んでいた。
連れの男が心配そうに背中を摩り、なにやら話している。彼らの横をノロノロと亀のように追い越そうとした時、私の目に映ったのは、しゃがみ込んでいた男の蒼白した顔色と虚な眼だった。それは、明らかに高山病の症状のそれだった。
その後、彼らはゆっくりとした動作で踵を返し、フラフラした足取りで山を降りていった。
2度目の心折れはこれを見てしまった時だ。
数分後の自分を見ているようで、恐ろしくなった。
そうだ、ここはもう高山病の腹の中なのだ。
私は、深い呼吸を心がけ、なるべく周りは見ないようにして、足元だけに集中した。

鳥居が見える。もう少しで9合目に到達する、と思った私の期待をまんまと裏切る富士の罠。
そこにはこう書かれてあった。

本8合目……。3400M。

3度目の心折れ。
数時間前に8合目に到達したと思っていたのだ。
なんなのだ、本8合目とは。9合目でいいだろう!
「嘘でしょ?」
この台詞を何度口走ったことか。
私の横で、「そんなこともある」と、笑顔を浮かべている彼を、妬ましく、羨ましくもあった。

終始、先を歩く相方、羨ましい

もう余裕など、どこを探しても見つからなかった。
3000Mを超えると、段違いに空気が薄くなった。
加えて気温が下がり、また上着と手袋とネックウォーマーを装備した。景色はどうやら絶景らしい……。

折れた心の修復もままならないまま、9合目を目指す。
傾斜は更に厳しさをました。そこに今までになかった事態が追加される。
風だ。
台風並みの強風に、時折身体を飛ばされそうになる程の突風が襲った。標高3500M地点、ここから先は神の領域とはよく言ったものだ。
すれ違いざま、上級登山者らしき男女のペアが、上から降りてきて、私たちにアドバイスをしてくれた。
「今から上に行くなら、風に気をつけてください、相当強いです」、登山上級者らしき人の助言だけに、更に恐ろしさに拍車がかかった。

絶景である。

9合目の鳥居が見えてきた。
もはや、何もなくなってしまった私は、祈ることしかできなかった。ここに至るまでの、さまざまな出来事に感謝しながら祈り続けた。雑念が一つ一つ小さな粒に変わり、余計なことを考えなくなり、心がシンプルになっていくのが解った。
いくらか私も達観したのではないだろうか?
そう思い始めた時、突風が私の帽子を吹き飛ばした。
1メートル下に転がりながら落ちていく帽子。
この1メートルがなんと遠いことか。
次の突風が襲う前に帽子を掴まなければならない。
必死になって帽子を拾いあげた私の目に飛び込んで来たのは、急傾斜の下りの景色だった。
一瞬で身体は硬直し、高所恐怖症が再発症した。
4度目の心折れがきた。
私は近くの岩場にしがみついた。
すくむ脚を庇いながら9合目だけを見上げた。
あと20メートルほどか。
私はあまりの恐ろしさに、走り出した。
何も残されていないと思っていた体力で、20メートル急傾斜地をダッシュしたのだ。
すでに9合目に到達している彼が心配そうに眺めていたが、私が走り出すと「おー!すげー!」と、歓声を上げてくれた。

岩場にしがみつく、滑落したら終わる

9合目に到達。3580M。
武田鉄矢の「思えば遠くへ来たもんだ」を、思わず口ずさむ。あと一つ。そうだ、後、もうひと苦労だ。
そう思うと、身体から謎の力が湧いてくる。
とはいえ、大した力ではない。
意地であったり、根性であったり、そういう類いの自我のような力だ。
「ナイスファイトや!」と、彼は終始私を励まし続けてくれている。
ありがたい。
彼との約束を果たしにやってきたが、きっと彼とじゃなかったらここまで登れていたかわからない。
いや、間違いなく登れていなかった。

10分ほど休憩を入れて、私たちは最終地点を目指し、重い腰をあげた。

もう、足元しか見えなかった。
一歩、また一歩、歩みを進める。
この登山で、実にさまざまな感情が私の中を駆け巡った。そして、最後まで残った2つの感情があった。
一つは、高所恐怖症、厄介な感覚だ……。
そしてもう一つは、感謝だった。

ゴールの鳥居⛩️
あと少しが急勾配…

無謀な富士登山に送り出してくれたスタッフ。
ストックや上着を貸してくれた仲間たち。
付き合ってくれたバディの友。
下半身メニューでシゴいてくれたトレーナー。
しっかり晴れてくれた天候。
高山病や怪我をしなかったこと、挙げたらきりがない。

そうやって私たちは頂上に到達したのだ。
もはや強風が、私たちの登頂を祝ってくれているようで、誇らしかった。
達成感というものはあまりなく、安堵の思いのほうが強くあった。登頂時間は、12時30分だった。
7時間ほどの試練であったが、およそ何年分かの体験をしたようだった。
自分の弱さ、浅ましさ、頭の悪さ、思慮の浅さ、反省は馬に喰らわすほどあった。

よくやったと自分を祝福

これが私の50歳最後の週末の出来事だ。
そして、一緒に行ってくれた親友、本江には本当に感謝している。

ありがとう、また、つるもっさ!!👍

おめでとう㊗️

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