見出し画像

第6回「ナイチンゲール」を読む(前編)

 さて、お約束していたとおり今回は、アンデルセンの実人生に主軸を置いた過去5回のコラムとは趣向を変えて、彼の童話のひとつ「ナイチンゲールNattergalen」を読んでみることにしましょう。デンマーク語が読める方は、王立図書館のウェブサイトで原文が公開されていますので、ぜひ挑戦してくださいね。


文中マーク

ナイチンゲール

 中国では、皇帝だって中国人なのですよ。皇帝がまわりに侍らせているのはみんな中国人です。もうずっと昔のお話ですが、だからこそ忘れてしまう前に、このお話を聴いてもらう値打ちがあるのですよ! 皇帝のお城は、世界でならびない立派なものでした。何から何まで綺麗な陶器でできているのです。たいそう高価で、けれど壊れやすいものですから、触るわけにもいかず、行儀よく眺めるしかありません。庭園では、それはそれは見事な花々が見られました。いちばん見事なお花には銀の鈴がくくりつけられ、花に気づかず通り過ぎることのないようにと、凛々と鳴るのでした。本当に、皇帝の園では何もかもがよく考えぬかれていました。庭園はずっと果てまで延びていましたので、園丁にもどこが端だかわからないほどでした。ずんずん歩きつめていけば、高い樹々のならぶ世にも美しい森や深い池にたどりつくのです。森からまっすぐ下っていくと、青く深い海が見えてきます。大きな船は枝々の下をそのまま進むことができました。これらの樹枝に一羽のナイチンゲールが巣をつくっていて、実にすばらしい声で歌うのでした。何しろ、ほかにやることがたくさんある貧しい漁師でさえも、夜ふけに漁網を引き揚げに出てナイチンゲールの声が聴こえてくると、じっと耳を澄ますほどだったのです。「ああ、なんて綺麗なんだろう!」と彼は言いましたが、そうするうちにも自分の仕事にかからねばなりませんから、鳥のことなど忘れてしまうのでした。それでも、次の晩になるとまたナイチンゲールが歌っています。漁師は表へ出て、先と同じことを言いました。「ああ! なんて綺麗なんだろう!」
 世界中のすべての国から旅人たちが皇帝の都へやって来て、街に、城に、庭園に驚きました。けれど、ナイチンゲールの歌を聴くと、みんなして言うのです。「やっぱりこれが一番!」ってね。
 そして旅人たちは故郷に帰ってから、そのことを話して聞かせるのでした。学のある人たちは、街と城とお庭のことをたくさん本に書きました。けれども、ナイチンゲールのことだって忘れてはいません。ナイチンゲールのことは他のどれよりも上に書かれていました。それに、詩を作ることのできる人たちは、それはそれは素晴らしい詩を書いていて、そのどれもが深い湖のそばの森で出会ったナイチンゲールのことを歌っているのです。
 それらの本は世界中に届けられました。何冊かは皇帝のところにも届いたことがあります。皇帝は黄金の椅子に座ったきりずっと読みふけって、ひっきりなしに、顔を振ってごと頷いていました。都や城やお庭のことが素晴らしい書かれ方をしているところを話してもらうのは愉しいですからね。「だが、ナイチンゲールがやはり一番!」とも書かれていました。
 「どういうことだ!」と皇帝は言いました。「ナイチンゲール! そんなもの、私はぜんぜん知らないぞ! ここにそんな鳥がいるというのか、私の帝国に、それも私の庭園に! そんなの聞いたことがないぞ! そういうことを、もっと本で読めるようにしなくては!」
 そうして皇帝は従者を呼びつけました。自分よりもみすぼらしい人が話しかけようとしたり、何か尋ねようとしたりしても、「ピー!」というほかに返事をしない従者です。そんな返事に何の意味もありません。
「この地にはナイチンゲールという名の、世にも珍しい鳥がいるらしい!」と皇帝は言いました。「わが大帝国でまたとなく優れたものだという! どうして今まで一度もそんな鳥がいることを教えてくれなかったんだ!」
「そんな鳥の名前はこれまで聞いたことがございません!」と従者は言いました。「宮廷に差し出されたことのない鳥でございます!」——
「その鳥を今晩ここに連れてきて、朕の前で歌わせるのだ!」と皇帝は言いました。「朕がもっているものを世界のみんなが知っているというのに、朕がそれを知らないのだからな!」
「そんな鳥の名前はこれまで聞いたことがございません!」と従者は言いました。「鳥を探すでございます、鳥を見つけるでございます!」——
 とはいうものの、どこで見つかるというのでしょう。従者はすべての階段をてっぺんへ下へと上がったり降りたり、広間と廊下を行ったり来たりしましたが、誰に出くわしてもナイチンゲールの話なんか聞いたことのある人はひとりとしていません。従者はもういちど皇帝のところへ走っていって、きっと本を書いた連中の作り話にちがいありませんと申し上げました。「皇帝陛下におかれましては、書かれたものをお信じになりませぬよう! それは黒い技術などと呼ばれる発明のようなものなのです!」
「けれど、朕がその鳥のことを読んだ本は、」と皇帝は言いました。「日本の偉大な皇帝から贈られたものなのだから、嘘ではあるまい。ナイチンゲールの声が聴いてみたいのだ! 今晩ここに参らせるがよい! その鳥にはいかなる褒美をもつかわす! もし参らぬとあらば、宮中にいる皆が晩餐を済ませてから、その腹をぶってくれようぞ」
「チン・ペー!」と従者は言うなり、また走り出して、すべての階段をてっぺんへ下へと上がったり降りたり、広間と廊下を行ったり来たりしました。宮中の半分の人びとが一緒になって走りました。この人たちだって、お腹を叩かれたくはありませんものね。世界中が知っていながら宮廷では誰も知らない、世にも珍しいナイチンゲールのことを尋ねまわることになりました。
 とうとう従者たちは、厨房にいる小さな貧しい女の子に出会いました。彼女は言います。「ああ神様、ナイチンゲールですって! 知っていますとも! 本当に、あの歌声といったら! 毎晩、テーブルの残りものを病気のお母さんのところへちょっぴり持っていく許しをいただいているのです。お母さんは海の近くに住んでいて、私が帰る途中、疲れて森で休んでいると、ナイチンゲールの歌う声が聴こえてくるのです! そのうち眼に水が湧いてきて、まるでお母さんにキスしてもらったみたいなの!」
 「ちっちゃな賄いさん!」従者は言いました。「わしらをナイチンゲールのところへ連れていってくれるなら、ずっと厨房に置いてやって、皇帝が食事をするのを眺める許しをくれてもいい。何しろ、今晩じゅうにというお言いつけなのでね!」——

第6回画像

エドマンド・デュラック挿画、Stories from Hans Andersen. Hodder & Stoughton 1911より

そうして、ナイチンゲールがいつも歌っている森へ皆で出かけることになったのです。宮中の半分の人数が一緒についてきました。目一杯まで歩きつめたところで、雌牛が唸り声をあげだしました。
 「おお!」とお小姓たちが言いました。「これでやっとこさ手に入った! あんな小さな生き物なのに妙に力があるもんだな! 前にたしかに声を聴いたことがあるよ!」
 「いいえ、あの唸っているのは牛です!」とちっちゃな賄いさんは言いました。「着くまでまだまだです!」
 今度はカエルたちが沼でケロケロ鳴きました。
 「美しい!」中国の宮中のお坊さんは言いました。「声が聴こえるぞ、まるでお寺の鐘のようじゃわい!」
 「いいえ、あれはカエルです!」とちっちゃな賄いさんは言いました。「でも、もうすぐナイチンゲールの声が聴こえるんじゃないかしら!」
 すると、ナイチンゲールが歌いだしました。
 「これだわ」とちっちゃな賄いさんは言いました。「ほら! ほら! あそこにいる!」と、枝にとまった灰色の小鳥を指しました。
 「本当かい!」従者は言いました。「あんな格好をしているなんて、思ってもみなかったなあ! いかにもさっぱりしすぎだ! こんなにたくさん立派な人間が自分のところに来たものだから、色がなくなっちゃったんだな!」
 「ちっちゃなナイチンゲールさん!」とちっちゃな賄いさんが声を張り上げました。「皇帝陛下がね、あなたに御前で歌ってほしいっておっしゃるの!」
 「よろこんで!」そう言ってナイチンゲールが歌うと、愉しい気分になりました。
 「まるで玻璃の鐘を振るような音だ!」従者は言いました。「それにあの小さな喉はどうだ、あんなのから声が出るんだなあ! これまで聴いたことがないような素晴らしさだ! こりゃ宮廷で大成功になるだろうな!」
 「皇帝の御前でもういちど歌うのですか?」皇帝が一緒に来ているものと思っていたナイチンゲールは訪ねました。
 「わが麗しの小鳥ナイチンゲール!」と従者は言いました。「謹んであなたを今夕の宮廷晩餐会にお招きし、偉大なる皇帝陛下を心とろかす歌声で慶ばせていただきたい!」
 「野天で歌うのが一番だと思いますよ!」とナイチンゲールは言いましたが、皇帝が心待ちにしておられると聞かされたものですから、ともかくよろこんでついて行きました。
 お城ではぴかぴかに掃除がなされていました! 壁も床も陶器でできていて、幾千もの黄金のランプに照り輝いています! きっかり正確に鐘を鳴らすとびきり美しい花々が、廊下に並べられていました。そばを駆けていく者があったり風が通り抜けたりすると、どの鐘もこぞって鳴りましたが、その響きは耳に届かないのでした。
 皇帝がお座りになっている大広間の真ん中には、金の止まり木が用意されました。ナイチンゲールはそこに止まることになりました。宮廷中の人間がそこにはいました。ちっちゃな賄いさんはもう本物の賄いさんの称号をいただいていましたので、扉の陰にいてもよいことになりました。どの人もいつになく豪華な身繕いをして、皇帝が灰色の鳥に頷きかけているのを皆で見ていました。
 ナイチンゲールの歌声の素晴らしさといったら、皇帝が眼に涙をうかべるほどでした。涙は頬をつたって流れ落ちました。それでもナイチンゲールがいっそう美しく歌いました。歌はまっすぐ心に届き、皇帝はたいへん嬉しい気持ちになりました。皇帝は、ナイチンゲールは首に金のスリッパを提げるがよいと仰いました。けれどナイチンゲールは、もうご褒美は十分いただいておりますよとお礼を申しました。
 「皇帝のお眼に涙がうかぶのが見えました。私には何よりの宝物です! 皇帝の涙はすばらしい力を持っているのです! ああ、もうご褒美は十分です!」と言って、ふたたびすばらしく美しい声で歌うのでした。
 「あんなに愛らしい様子の作りようったらありませんわ!」とご婦人がたはあちこちで言い合いました。それから口に水を含んで、誰かが話しかけてくると囀り声を出そうとしたのでした。自分までナイチンゲールになったつもりでいたのですね。本当に、召使いと賄いさんたちは自分らも心が満足していると口々に言い出しました。それは大変なことなのです。この人たちを喜ばせるほど大変なことはないのですから。本当に、ナイチンゲールは大変見事に歌い上げたのです!
 ナイチンゲールは宮廷にとどまり、日に2回、夜に1回散歩に出る自由とともに、自分の籠を賜りました。12人の世話係がついて、総がかりでナイチンゲールの脚に絹のリボンを巻き、ぴちっと結びました。これでは外に出たって少しも愉しいことはありません。
 街じゅうで不思議な鳥の話をしていました。ふたりで会うと、ひとりが「ナイチン——!」と言うだけで、もうひとりが「ゲール!」と言い、そろってため息をついてお互いの気持ちを察するのでした。そうそう、11人の物売りの子らまでナイチンゲールの名で呼ばれるようになったのですが、そのうちのひとりとして歌のうまい子どもなんかいやしませんでした。
 ある日のこと、皇帝のもとに大きな包みが届きました。外には、「ナイチンゲール」と書かれてあります。
 「わしらの名高い鳥のことを書いた新しい本だな!」と皇帝は言いました。ですが、本なんかじゃありません。筥に入っていたのは、何やら小さな作り物でした。作り物のナイチンゲールです。生きたナイチンゲールに似ているといえばいえそうですが、あちこちにダイヤモンドだのルビーだのサファイアだのがくっついています。作り物のナイチンゲールのゼンマイを巻くと、本物のナイチンゲールが歌った曲のひとつを歌ってくれて、広間を行ったり来たりしながら銀と金に燦めくのでした。首には小さなリボンが巻かれていて、「日本の皇帝のナイチンゲールは中国皇帝のナイチンゲールの素晴らしさには及びもつきません」と書かれていました。
 「素晴らしい!」誰もがそう言いました。作り物の鳥を届けにきた人は、すぐさま「ならびなき皇帝のナイチンゲールのお届け人」の称号を賜りました。
「一緒に歌わせるがいい! どんな二重唱になるかな!」
 そうして2羽がそろって歌うことになったのですが、いっこうにうまくいきません。どうしてって、本当のナイチンゲールは自分のリズムで歌いましたが、作り物の鳥はちょこまか動き回るのですから。「これは仕方がないのです」と音楽教師は言いました。「こいつはとくに正確に拍子をとっていて、私の流儀そのままなのです!」それからは作り物の鳥だけで歌うことになりました。——それは本物とまるで変わらないほどうまくいきました。それに、作り物の方は見た目までずっと綺麗でした。ブレスレットやブローチみたいにきらきら輝いていたのです。
 作り物の鳥は33回も同じ歌を歌いましたが、くたびれるということはありません。人びとは嬉しそうにまた最初から聴いていましたが、皇帝はそろそろ生きたナイチンゲールにも少し歌ってもらいたいと思いました————けれど、ナイチンゲールはどこに行ってしまったのでしょう? 開いた窓から緑の森へ飛び去ってしまったことに、誰も気づいていないのでした。
 「どうしたっていうんだ!」と皇帝は言いました。宮廷人はみなののしり騒ぎ、ナイチンゲールほど恩知らずな畜生はいないと考えました。「でもまあ、いちばん上手な鳥がいるんだもんな!」とみんな言いました。それからまた作り物の鳥が歌うことになりました。同じ歌を歌ってもらうのは34回目になりましたが、それでもまだ全部覚えるには足りません。とっても難しいのですから。音楽教師は作り物の鳥をやたらに褒めて、本物のナイチンゲールよりもこっちの方が、着ている衣やたくさんの美しいダイヤモンドだけでなく心の内まで優れていると断言しました。
 「だってほら、高貴な方々、誰はさておき皇帝さま! 本物のナイチンゲールですとどんな曲が出てくるのかわかりっこないですが、作り物の鳥だと一切合切決まっているのですからね! こんなふうになる、これ以外は駄目ってね! 細かい仕組みまで説明ができます。バラバラにして、どんなふうに車輪がついていてそれがどんなふうに動き、どうやって一方がもう片方についていくのかを、人間の頭でわかるようにお見せすることだってできます——!」
 「本当にその通りだとも!」とみんなが言いました。音楽教師は、次の日曜日に人びとの前で鳥を見せることを許されました。みなも鳥が歌うのを聴くがよい、と皇帝は言いました。それが歌うのを聴いていると、まるで気持ちよくお茶に身を浸しているみたいに、たいそう心が満ち足りました。とっても中国風なのですからね。みんな口を揃えて「おお!」と言い、「壺舐め指(Slikpot=人差し指)」と呼んでいる指を宙に突き出しました。そうしてウンウンと頷きました。けれども、本当のナイチンゲールの歌を聴いてきた貧しい漁師たちは言いました。「そりゃあこっちも綺麗な音を鳴らすし、似てもいるさ。けど、何かが足りねえんだ、何がって、そりゃ分かんないけどな!」
 本物のナイチンゲールは国じゅういたる所から追い払われました。
 作り物の鳥は皇帝の臥所のぴったり横にしつらえられた絹の枕に座っていました。黄金やら宝石やら、もらった贈り物はみんな鳥のまわりに置いてあります。称号は、「天高き皇帝の晩餐の歌い手」に上がり、官位は左から一番のところに進みました。心臓がついている側こそ一等立派なのだというのが皇帝のお考えでしたし、皇帝の心臓だって左にありますからね。音楽教師が作り物の鳥のことを書いた本は25巻に達しました。これがとにかくためになり、とにかく長く、しかもいちばん重々しい中国の言葉で書かれているのですから、人は誰しもそれを読んで理解したと口では言うのでした。だってそうでも言わないと、自分は馬鹿ですと言っているようなもので、お腹をポンと叩かれてしまいますからね。
 そうするうちに、丸1年がすぎました。皇帝も宮廷人もその他中国じゅうの人びとも、作り物の鳥の歌に出てくるちょっとしたクルックーという鳴き声ひとつまで残さず諳んじられました。だけどそのおかげで、その歌が何より好きだと思えてくるもので、自分の口で一緒に歌うことだってできましたし、また実際そうしていました。街をゆく男の子たちは「ジジジ! クルッククルッククルック!」と歌い、皇帝もそんな歌を口ずさんでいました——! 素晴らしいに決まっています!
 けれども、作り物の鳥がこの上ない美声を響かせ、皇帝が臥所でそれを聴いていたある晩、鳥の中で何かが「ズボッ」という音をたてました。「シュルルルルルル!」といって、すべての車輪が回ったかと思うと、音楽がやみました。
 皇帝はやにわに臥所から飛び起きて、侍医を呼びにやらせました。ですが、お医者さんにどうしろっていうのでしょう! となると今度は時計職人を連れて来させました。よくよく話し合って調べてから、職人は鳥をどうやらこうやら動くようにはしましたが、あまり働かせすぎないようにしてくださいと言いました。歯車が擦り切れている上に、ちゃんと音楽が奏でられるように新しいのをつけることもできないからです。これはひどく残念なことでした! 作り物の鳥に歌ってもらえるのは、1年に一度きりということになったのです。それだって多いくらいでした。でも、音楽教師は重々しい言葉でちょっとした演説をぶって、これは前と変わらず優れたものだ、であるからして前と変わらず優れたものである、と言いました。
 それから5年が経ちました。国じゅうが本当に大きな悲しみを抱えていました。なぜって、みんな心から皇帝のことが好きだったのですから。いま皇帝は病気に臥せっていて、もう長くはないのだということです。新しい皇帝がすでに選ばれて、人びとは通りに出ては皇帝のお加減はどうなっているのですかと従者に尋ねるのでした。
 「ピー!」と従者は答えて頭を振りました。
 皇帝は大きくて立派な臥所で、冷たく青い顔をしていました。宮中の人びとはみな、皇帝は死んだのだと思っていました。どなたもこなたも、新しい皇帝にご挨拶をせねばと駆けていきました。召使たちがそのことをお喋りしようと駆け出してきました。お女中たちは盛大なコーヒーパーティーを催しました。誰が歩いても足音が響かないようあちこちの広間や廊下に敷物がしいてありますので、たいそう静かで、しんとしていました。けれども、皇帝はまだ死んではいませんでした。身体がこわばって血の気が引いてはいますが、ビロードの長い緞子をめぐらしどっしりした金の房を垂らした立派なベッドに身を横たえています。頭上高くに開いた窓からは、月の光が皇帝と作り物の鳥のほうへ射しこんでいました。
 かわいそうな皇帝はもう息もできそうにないほどでした。まるで胸に何かが乗っているようです。皇帝は眼を開けました。すると、なんと死神が胸の上で皇帝の金の冠をかぶり、片手に皇帝の金のサーベルを提げ、もう片方の手には立派な旗を握っているではありませんか。臥所を蔽う大きなビロードのカーテンの襞のあちこちには、ぎょっとするような顔が浮かび上がりました。意地悪そのものの顔もあれば、にまにまと穏やかな顔をしているのもあります。皇帝の心臓のうえに死神が座っているこのときに、皇帝を見つめているのは、皇帝がやってきたすべての悪いおこないと良いおこないでした。
 「これを覚えているか?」と次々に顔が囁きました。「お前はこれを覚えているか!」そうしてあれやこれやとさかんに語りかけてくるうち、皇帝の額には汗が噴き出しました。
 「そんなものは知らない!」を皇帝は言いました。「音楽を、音楽を、盛大な中国の太鼓を!」と皇帝は叫びました。「奴らの言うことがいっさいこの耳に入らないようにな!」
 それでもずっとやみませんでした。言われたことに中国人がいちいち頷くのとそっくりに、死神は頷きました。
 「音楽を、音楽を!」と皇帝は喚きました。「ちっちゃくて陽気な金の鳥! 歌え、歌えったら! 私はお前に黄金も宝石もあげたじゃないか。金のスリッパをみずから首にかけてやったじゃないか。歌え、歌えったら!」
 ところが、鳥は停まったままです。ゼンマイを巻いてくれる人がいないのです。巻いてあげないと歌ってくれません。けれども死神は、大きく虚ろな眼の孔で皇帝をじっと見つめていました。ひどく静かで、怖いぐらいしんとしていました。
 ちょうどそのとき、窓のすぐそばでこの上なく素晴らしい歌が響きました。外の枝にとまっているのは、生きて動くちっちゃなナイチンゲールでした。皇帝の苦しむお声が聴こえたので、皇帝のために慰めと希望の歌をお聞かせしようとやってきたのでした。ナイチンゲールが歌ううちに、あたりにいたものの姿はしだいしだいに薄れていきました。皇帝の弱ったお身体には、見る間に勢いよく血が通いはじめました。死神まで歌を聴いて言いました。「ちっちゃなナイチンゲールよ、続けておくれ! 続けておくれ!」
 「それなら、その立派な金のサーベル私にいただけますか! キラキラした旗をいただけますか! 皇帝の冠を私にいただけますか!」
 すると死神は、一曲歌ってもらうごとにひとつひとつ宝物を差し出しました。ナイチンゲールはまだ歌うことをやめません。静かな墓地の歌になりました。墓地には白いバラが茂り、ニワトコの木が香り、みずみずしい草がこの世に遺された人たちの涙に濡れています。死神は自分の庭へと心が誘われ、冷たく白い霧のように窓から漂い出ていきました。
 「ありがとう、ありがとう!」と皇帝は言いました。「天上のちっちゃな鳥さん、私はお前をよく知っているとも! 私が国から領土から追い払ったんだ! でも、私の臥所からいやな幻を歌で追い払って、私の心から死神を遠ざけてくれた! 私はどんなお礼をしたらいいだろうね?」
 「もうお礼はいただいていますよ!」とナイチンゲールは言いました。「はじめて私が歌ったとき、あなたの眼の涙を頂戴しました。あのときのあなたを忘れはしませんよ! 歓びこそが、歌う者の心を善くしてくれるのです——! けれど、どうかよくおやすみになって、元気に丈夫になってくださいね! 歌をご披露しますから!」
 そうしてナイチンゲールは歌を聴かせてあげました——皇帝は心地よい眠りに落ちました。とても優しく素晴らしい眠りでした。
 力みなぎるような健やかな気分で目醒めると、陽の光が窓から皇帝のほうへ射し込んでいました。家来の誰もまだ戻ってはいませんでした。だって、みんな皇帝が亡くなられたと思っていたのですからね。けれどもナイチンゲールはまだ歌ってくれていました。
 「ずっと私のところにいてくれないと駄目だよ!」と皇帝は言いました。「お前が歌いたいときにだけ歌ってくれればいいんだ。作り物の鳥なんかバラバラにしてやるさ」
 「そんなことはなさらないで!」とナイチンゲールは言いました。「その鳥はできるだけの善いことをしてくれたじゃありませんか! ずっと持っていてあげてください! 私はお城に巣をつくって住むわけにはいきませんが、お目にかかりたいと思ったときに来させていただければ、夕暮れに窓のそばの枝にとまって、あなたのために歌ってさしあげます。あなたが歓び、また思慮深くなってくださるようにね! 幸せな人たちのこと、苦しめる人たちのことを、私は歌いましょう! あなたのまわりで隠されている悪しきもののことも、善きもののことも歌いましょう! 小さな歌鳥は貧しい漁師のもとへ、農夫の屋根へ、あなたとあなたの宮廷から離れたところにいるすべての人びとのもとへと飛び回っているのです! 私はあなたのかぶっておられる冠よりもあなたの心を愛します。でもその冠は、あなたのまわりに漂う聖なるものの香りをまとっているのですね! ——私は会いにきます、あなたのために歌います! ——でも、あなたにもひとつだけお約束いただきたいのです!」——
 ——「何でも言っておくれ!」と皇帝は言って、自分が身に纏っていた皇帝の衣裳を着て、黄金のずっしりとしたサーベルを心臓のあたりに持って立っていました。
 「ひとつだけお願いがあるのです! あなたのところにはちっちゃな鳥がいて、それがどんなお話でもしてくれるということは、誰にも話さないでいてほしいのです。そうしていただけるなら、いっそう素晴らしいことになるでしょう!」
 そう言うと、ナイチンゲールは飛んでいきました。
 召使いたちが亡くなった皇帝をお運びしようと入ってきました。——が、そうです、みんなその場に立ち尽くしてしまったのです。すると皇帝は言いいました。「いい朝だね!」

 いかがだったでしょう。今回は翻訳だけで精一杯です。
 次回はこのお話の細部に立ち入っていくことにしましょう。「本物のナイチンゲール」と「作り物の鳥」のちがいが大事なテーマになっていることはもちろんですが、ナイチンゲールが宮廷に現れる前の皇帝や家来の様子もなかなか見逃せないポイントを含んでいるような気がします。
みなさんも、お話の中で気になるところが見つかれば、次までしっかり覚えていてくださいね。

文中マーク


著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。

【お知らせ】奥山裕介先生が『ニルス・リュ-ネ』(写真左;イェンス・ピ-タ-・ヤコブセン著、奥山裕介訳、幻戯書房刊)を上梓されました。イェンス・ピ-タ-・ヤコブセン(1847-1885)は、夭折の詩人で、『ニルス・リューネ』の翻訳は山室静訳『ヤコブセン全集」(青蛾書房、1975年)以来46年ぶりの新訳です。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?