見出し画像

なぜ大人がムーミンに魅了されるのか?:トーベ・ヤンソンのエッセイ「似非児童文学作家」から考える

 ムーミンの小説を大人になって読み返す人、あるいは大人になってから初めて読む人もいると思います。児童文学として位置づけられるムーミンの物語を大人が手に取り、そして魅了されるのはなぜでしょうか。今回は、トーベ・ヤンソンが1961年に発表したエッセイ「似非児童文学作家」をもとにムーミンの物語が大人をも惹きつける理由を考えてみます。

 「似非児童文学作家」は、2017年に刊行された『Bulevarden och andra texter(「大通り」とそのほかのテキスト)』という短編集に収められています。この短編集は、ヤンソンが雑誌や新聞で1934年から1997年に発表し、本の形式では刊行されなかった18の小説やエッセイ、そしてイラストによって構成されています。この本の日本語版はありませんが、1930~1940年代に発表された9つの短編の翻訳は『旅のスケッチ:トーベ・ヤンソン初期短篇集』に収録されています。

 さて、ヤンソンは「似非児童文学作家」で作家が児童文学を書く動機について、作家が小さな子どもを楽しませたり育てたりするために書いていないのだとすれば、作家自身の子どもっぽさを理由に、控え目な現実逃避として書いているのではないか、と述べています。ここでいう「子どもっぽさ」というのは、たとえば雷や大雪や洪水といった、大人にとっては恐怖や不安を意味する災難にわくわくするような子どもの感覚のことです。子どもの本を書く作家は、災難を現実的な問題としてのみとらえる大人の感覚に息が詰まったり怖くなったりし、子どもの感覚を取り戻そうと物語を書きますが、子どもがおのずと感じる災難の楽しみを追体験し、表現することは簡単ではありません。こうしたことからヤンソンは、失ってしまい実現できない子どもの感覚への渇望が子どもの本を書く原動力になりうるのではないか、と推測しています。

 ヤンソンは、作家がこのような個人的な動機によって子どもの本を書いているとしても、書かれた物語は子どもの読者の欲求と相いれないものではないことを付け加えます。そのうえで、「作家は、読者の中に大人がいることを発見し、驚くこともありうる。」と言います。
 大人が子どもの本を読む理由についてヤンソンは、サスペンスを読むことで恐怖に触れたい欲求があるように、子どもの本を読むことで優しさに満ちた世界に触れたい欲求があるのではないか、と述べています。あるいは、子どもの本に「象徴、選び抜かれた言葉、あるいは洗練された素晴らしい手法」などがあるならば、大人が読む「言い訳」になることも挙げています。さらに興味深いことに、それ以外の可能性として、大人の読者も作家と同じように子どもの感覚を求めて子どもの本を読んでいるのではないか、ともヤンソンは言います。

 以上のヤンソンの考えを踏まえて、ムーミンを読む大人の読者の動機を考えてみます。9冊のムーミンの小説のうち、初期の本は冒険の物語ですが、後半の本は登場人物の行動よりも心情の機微が表現されるようになり、登場人物や舞台設定は子ども向けのまま、大人向けの小説として読める本になっていきます。では、ムーミンを読む大人の読者は、哲学や人生訓を学ぶといった大人らしい楽しみや目的のために読んでいるのでしょうか。たしかに、さまざまな学びがあることはムーミンの物語の魅力ですが、何よりもまず、読者はトーベ・ヤンソンが書いた物語そのものに惹かれるのだと思います。大人の読者がムーミンに魅了されるのは、ヤンソンが物語を書いた動機に似た、安心が約束された災難を楽しむことができる子どもの感覚を求めているからなのかもしれません。

 ヤンソンは「似非児童文学作家」の終わりのほうで、作家が物語を書く時には「まったく隠し事なく、ただ読者のこと、あるいは自分自身が幼かった時のことを考えている」側面があることにも言及しています。前述のように、読者は無意識的に作家が物語を書いた時と同じような動機で子どもの本を読んでいるのかもしれません。そのいっぽうで、作家は会ったこともない読者を楽しませることを考えているかもしれません。このように考えてみると、読書とは作家が書いたものを読者が読むという一方向の行為ではなく、作家と読者のコミュニケーションであるといえます。私たち読者はもうヤンソンに会うことはできませんが、作品を読むことで彼女をより近くに感じることができるのです。

<紹介した本>
Tove Jansson, Bulevarden och andra texter, Förlaget, Helsingfors, 2017.
トーベ・ヤンソン 著、冨原眞弓 訳『旅のスケッチ:トーベ・ヤンソン初期短篇集』筑摩書房、2014。

<参考文献>
ボエル・ウェスティン 著、畑中麻紀・森下圭子 訳『トーべ・ヤンソン:人生、芸術、言葉』、フィルムアート社、2021。


著者紹介 / 小林亜佑美(こばやし あゆみ)
秋田県出身。高校生の時に初めてムーミンを読み、大学で文学・文化・表象論を学びヤンソン研究を始める。
2013年山形大学人文学部卒業、2016年法政大学大学院国際文化研究科修士課程修了。
修士論文タイトルは「理解・不理解の主題から読み解くヤンソン作品の変化:『ムーミン谷の仲間たち』を中心に」。
著作物;バルト=スカンディナビア研究会誌『北欧史研究』第37号に「日本におけるトーベ・ヤンソンおよびムーミン研究の動向」を掲載(2020年)。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?