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Files of the Wanderer|Twitter小説 ※9/18更新

Twitterにて投稿中の都市伝説「Backrooms」を題材としたミステリー&ホラー小説のまとめになります。140文字以内で表現するちょっと変わった形式をお楽しみ下さい。※随時、更新していきます。

木曜日の朝、娘は決まって5時45分に朝泣きする。高齢出産で出来た子だが、朝泣きで喉が枯れてしまう以外はすこぶる元気な体だ。ちょうどその日は早朝からMTGがあり、男は鼻歌まじりにコーヒーを入れた。カフェインに少し敏感な性格だから、六分目からはお湯を出して体を誤魔化している。

「今日の議題はあの忌々しい会社の件だ。また君に文句を言いたいんだろう」コーヒーを飲む男の側でつま先のない男が言った。錠剤に手を取り、男はコーヒーと一緒に赤と青のカプセルを口に放り込む。頻繁に現れるつま先のない男に辟易しながら男は家を出た。妻のうんざりしたため息を背中に。

受話器を放り投げて椅子に持たれかかる。このやり取りを三年も繰り返していると自分が壊れたビデオカメラに映る被写体のように感じた。手で顔を覆っている間に次の仕事がデスクに置かれた。書類の山に数字の羅列が泳いでいる。観念して書類を手に取ると、見慣れないファイルが挟まっていた。

黄色いファイルは用紙に紛れ込んでいても酷く目立っていた。男は違和感を覚えていたが、怒鳴り声の催促によりファイルを開くことなくどこかにやってしまった。そのファイルは人目を抜けてデスクからこぼれ落ちる。ファイルには小さくこう書いてあった。「The Backrooms Case: 0062」

自宅のドアノブがやたらと重く感じる。男の帰りを待っていたのは冷えたマッシュポテトだけだった。ウィスキーを注いでひと息にあおる。男は酔いが回る前に仕事の残りを机に並べた。するとあの黄色いファイルが紛れていたのを見つけた。不思議に思いながらファイルを手に取った。

0062のファイルの中には数枚の書類と一枚の写真が入っていた。そばかすの濃い顔で屈託なく笑っている。少し頭の悪そうな雰囲気があった。男はその写真を眺めているとどこか懐かしく感じた。自分の写真ではない。だが何故か気になってしまう。ふと後ろに気配を感じた。妻だった。

「珍しいね、この時間に起きてるなんて」「冷房の調子が悪くて寝付けなかったのよ。フォウはぐっすりだけど」「そうかい」取り止めのない会話しながら妻は机を見た。「…それは?」「ああ、たまたま書類に紛れ込んでたんだ。何だろうね」「違うわよ、台所で仕事しないで言ったでしょう」

ルールその5, 寛ぐ場所で仕事をしない。怪訝な顔をする妻を見て男は慌てて書類を仕舞った。ただ何故か男は妻が焦りのようなものを見え隠れさせているように感じていた。「済まない、ちょっと今月は忙しくて。自分の部屋でするよ」「謝る所はそこじゃないわ。もういいけど」男は嘆いた。

怒号を背中に数字の羅列を処理する。結局前の日に残りは手がつけられなかった。そのことを後悔しながら手を動かす。ファイルと写真のことはすっかり忘れてしまっていた。昼時になって一息入れているとその存在を思い出し同僚のゼペに話した。「なあ、このファイルどこの部署のだ?」

「なんだこりゃ?」「仕事の山に紛れ込んでたんだ。うちの会社が探偵事業に手を出してたなんて知らなかったよ」「…相変わらず冗談が下手だな。営業の連中のお遊びだろう。預かっとくよ、中は見たのか?」「写真だけ、妻を怒らせてそれ所じゃなかった」「そりゃ大事だな」

ファイルを渡す際、表紙の文字に目をやった。「Backroomsって都市伝説だったか?」「知らんね、オカルトは好きだが聞いたことない」「つま先のない男の話をしても?」「チャズ、止めろよ、薬を飲む切掛になったんだろ。またお前の嫁さんから電話が来る。浮気相手になっても恨むなよ?」

木曜、またフォウの泣声で目を覚ます。台所にはつま先のない男がいた。「薬の効き目がないな、また先生に効能を強めて貰わなきゃ」男はコーヒーを淹れる。「何か思うことはなかったか?あの写真は君にとって重要な物だ」「止めてくれ、私に話しかけるな。くそ、すぐに予約を入れなきゃ」

男は乱暴に錠剤を取ると規定の倍以上の量をコーヒーと一緒に流し込んだ。「コーヒーよりも白湯を飲みたまえよ。ただでさえ君は腸が弱いんだ」男は頭を振って無視する。その場から逃げるように鞄を取り家を出る最中「あのファイル、いや写真を見て何も思わなかったのかね?」男の足を止めた。

「あれが誰か知っているのか?」「知っているとも。君ほどではないが」「…いや、どうかしてる。幻覚に話しかけるなんて」男は目を強く瞑って必死に気を紛らわせた。しかし次の一言でまた正気をかき乱された。「彼は君を今でも待っている。深いプールの底、超常の腑でな」「私を…?」

「チャズ!」金切り声で男は正気に戻った。顔を向けるとそこにはしかめ面の妻がいた。「いい加減にしてよ、いつになったら正気になってくれるの?幻覚なのよ、それは!」妻は既に半泣きになりながら男に叫ぶ。「済まない、今日は薬の効きが悪いみたいだ。明日、先生んとこに行くよ」

円満とはいえない夫婦生活を解決すべく男は町の病院にいた。「薬の量を増やせとは、まだ彼が見えるみたいだね」「見えるだけじゃない話しかけてもくる。まるで高い玩具でも買わされた気分だ」「チャズ、それも君の脳が生み出す幻だよ。記憶以外のことは喋らない」嗜めるように医者は言った。

円満とはいえない夫婦生活を解決すべく男は町の病院にいた。「薬の量を増やせとは、まだ彼が見えるみたいだね」「見えるだけじゃない話しかけてもくる。まるで高い玩具でも買わされた気分だ」「チャズ、それも君の脳が生み出す幻だよ。記憶以外のことは喋らない」嗜めるように医者は言った。

赤と青の錠剤から白い錠剤に代わり、以前よりも酸っぱさが増していた。「うっ、健康には良さそうだ」男は会社に向かいながら薬を飲む。丁度そのときだっった。しかめ面の先に全身キャメル色のスーツと帽子を被った男が挨拶をして近づいてきた。目深に被った帽子の下では素顔が見えなかった。

「押し売りなら結構だ。訪問販売も遠慮するよ」男は話かけられる前に怪訝な顔で言ってみせた。断り文句が苦手だが妻に練習させられた甲斐があった。「ファイルは見て頂けましたか?」思いもよらない言葉に男は声を詰まらせた。「書類と写真があったでしょう。出来ればご感想をお伺いしたい」

「あれを忍ばせたのは君の仕業だったのか。犯罪紛いなことをするね」「業務日報に書いて頂いても良いですよ。誰も取り合わないでしょうが」「何の為にあんなことを?」「それが私の仕事だからです」「…何故 私に見せたんだ」「その質問は的を得ています」くつくつと笑った。

男は会話の平行線にうんざりしながら「宗教のお誘いなら他所を当たってくれ!生憎とうちの神棚は満席だよ!」声を張ってスーツの男の側を通り過ぎようとした最中「つま先のない男は何か言ってませんでしたか?」その一言が男の足を止めた。「君にも見えるのか…?」「お時間、頂けますね?」

案内されたのはビルの合間にある狭い路地だった。「今さら変な物を紹介しないでくれよ?」スーツの男は煙草を点けると煙を辺りに撒いた。「失礼、諸事情あってね。煙たいのは我慢してくれ」それからスーツの男は煙草をふかすことなく手に持ったままだった。「それで君は…見えるのか?」

「直接 彼にお会いした事はありせんが認識はしていますよ」「どういう意味なんだ?」「ああいう手の物を良く知っているという事です。多くは語れませんがね」「あれは一体 何なんだ?私にか見えないしそのせいで家族の…」捲し立てるのを静止するようにスーツの男は人差し指を口元に向けた。

「余り声を荒げずに。まともな会話ではないのですから」「そうだけど…もう参ってるんだよ、気がおかしくなりそうだ」「私が多くを語れないのもそれが理由です。一度に全てをお話すると貴方は混乱する」男は溜息を吐いて自分を落ち着かせた。「チャズ、筋道を立てて話しましょう」

「名前を聞かれた覚えはないよ、調査済みってことかい」スーツの男は笑顔で応えた。「あのファイルは見て頂けましたか?書類と写真です」「写真だけね。書類は忙しくて見てなかった」「その写真を見て何か思い出しませんでしたか?」「いや特に…どこかで見覚えがあるような気はしたけど」

スーツの男は目線を泳がせて少しの間 考え込んだ。「ファイルは今どこに?」「同僚に預けたよ、まさか君からの贈り物だなんて思わなかったからね。暑中見舞いにしちゃ早過ぎだ」「成程 それは取り上げられたと見て良いですね」「あんなの誰も欲しがらないよ。営業部のデスクに野晒しかも」

「いえ、恐らくシュレッダー行きでしょうね。コピーで良かった。しかし大凡の検討がつきました。やはり事態は深刻だ…」「幾ら妄想が見えるからって大袈裟な…」「貴方の事じゃない、この町がですよ」「…済まない、理解が追い付いてないんだが」「ええ、そうでしょうとも」

「そろそろ明確に教えてくれないか?一体 何が起きてるんだ」「まだお話 出来ませんよ。言ったでしょう混乱すると。それよりBackroomsは知っていますか?」「都市伝説だろう?詳しくは知らないが、確か黄色い部屋でよく子供が迷い込む…」男の脳裏に黄色い光が過ぎる。それはあの部屋だった。

くる節ほどに浸かった水を囲むように黄色い部屋が延々と続いている。私はその延々と続く部屋を走っていた。水を弾く音が二つ、誰かが一緒だ。部屋が薄暗くてわからない。幼い笑い声だけが私の背中に語りかけている。でも私はそれが誰だか知っている。それは…

「チャズ!」スーツの男が困惑した表情で叫んだ。「あ、ああ…え?」「済みません、やはりまだこの話はすべきじゃなかった…」男はどういうことかわからなかったが自分の体中に付着していた黒い手形を見つけると悲鳴を上げた。「チャズ、この一瞬で貴方の身に起こった事を覚えていますか?」

「…ずっと黄色い部屋にいた、行きかけていた。あれは一体…」「…ある意味では今の貴方の状況に救われたという事ですね」「教えてくれ、一体 何が起きたんだ」「無数の手が貴方を掴んでいたんですよ、まるで招いている様にね。兎に角これ以上は危険だ、今日はこれまでにしましょう」

「暫くは安静にして下さい。先ほど話した事も出来る限り放念するように」スーツの男は名刺を取り出した。「何かあればここに連絡して下さい。くれぐれもご内密に」男が半ば呆然とする中、スーツの男は去った。溜め息混じりに男は汚れた手を振るう。その様子をひっそりと保安官が覗いていた。

普段よりも熱いシャワーが泥を洗い流す。黒い手形は服の中にまで着いていた。排水口が詰まりやしないかと男は冷や冷やしながら爪先を眺める。温度を上げても体の冷えは治らなかった。長風呂は好きではなかったが今日ばかりは無駄に当たっていたかった。会社は休むことにした。

「明日が休みで良かったよ」「大丈夫なの?車に轢かれそうになったって聞いたけど…」妻には嘘を言った。とても真実は伝えられそうにない。「体は無事だけど服は葬儀屋に出さないといけないね。洗ってみたけど染みが落ちないや」妻は苦笑いした。「何か食べる?大した物はないけど」

「ありがとう。でも何だかお腹が空かなくてね。フォウの顔を見てくるよ」「今は機嫌が悪いから泣かさないでね」「お姫様がご機嫌なとこなんて見た事ないよ」男は失笑しながら子供部屋に向かった。「やあお姫様、ご機嫌いかが?」娘はぶうぶう口を鳴らした。ご機嫌なときの仕草だ。

「おやご機嫌 斜めだと伺ってましたが?」男は娘を抱っこした。「シャワーを浴びたから汗臭くないよ」へへへと娘は笑った。「今日は色んな事があったんだ、パパは疲れたよ」娘は不思議そうな顔をする。ふと男はあの名刺を思い出すとポケットを探った。シャワーの前に寝巻きに入れていたのだ。

電話番号と特別補佐官とかかれた名刺。奇妙なことに名前が記されていなかった。代わりにNo.62~308とある。「妙だな、やっぱりインチキ営業マンだったかな」名刺を裏返すと男は驚いた。政府のロゴである金色の花が描かれていた。「政府の機関だったのか…!」

しかし名刺には政府機関のどこなのか記されてはいなかった。「名刺が嘘なら重罪だ、只の詐欺にそこまでリスクは負わない筈…でも一体 彼は…」そうこうしている内に娘がぐずり出してしまい、その疑惑は消えた。その日 名刺の事を思い出す事なく男は眠りについてしまった。

次の朝、男は飛び起きた。家のドアを壊れる位の力で叩かれたからだ。「この叩き方はゼペだな…」すっかり覚めた頭を運んで男はドアノブを握る。「なあ呼び鈴を鳴らせと何度も…」その先には確信していた相手と想像だにしない人物がいた。「至急 確認したい事がある。署まで来て貰おう」

冷えた鋼色の椅子と壁、男の隣には大きな鏡があった。キネマの中でしか見た事のない光景に男は酷く動揺していた。隣の部屋からはゼペの怒鳴り声が何度も聞こえる。まるで壊れたラジオの様に同じ事を繰り返している。「まさか我が社に犯罪者が潜んでいたとはな」無機質な部屋に声が響いた。

「社長…!」それは会社の代表であり親戚だった。昔は優しい印象があったが今では微塵もない。「犯罪ってどういう事ですか?私は法に触れる事なんてやってませんよ…!」「それをこれから確かめる。君のお陰で私も任意聴取だ」「そんな…」言葉の途中あのキャメル色のスーツの男を思い出した

取調室のドアが開かれる。やや人相の悪い事で有名な署長が現れた。「普段この日はゴルフでね、機嫌が悪いのは許せよ」乱暴に帳簿を机に置いた。「察しはついてると思うがお前にある容疑がかかってる。昨日お前が話していた 小洒落た格好をした男だ。そいつは有名な詐欺師でね、知ってたか?」

「いえ、知りませんでした…でも誰かを騙すとか、そんな話はしてませんよ」「じゃどんな話をしたんだ?まさかスーツの話で盛り上がったなんて言うなよ?あんな格好この町じゃ見ねえけどな」「それは…」とても都市伝説の事は口に出来ない。男が悩んでいる間 署長は目のピントを外さなかった。

「奴と関わりがない証拠でもありゃすぐに家に帰してやれるんだがな」書類の縁から大きな目を覗かせる。「証拠ったって…」その途中 男は名刺を思い出した。「何か思い出したか?」「いや…」男は一瞬 迷ったが、すぐにポケットの名刺を机に出した。「…彼の連絡先です、私は無関係だ」

署の正門が開かれる。小一時間と経っていないのに太陽が目に沁みた。名刺を差し出すと拍子抜けする程 簡単に解放された。「上出来だよ、小心者にしちゃあな」男は言い訳という苦虫を噛み潰す。同僚の事も会社の代表の事も気にかける余裕などなかった。今はただ家に帰りたい。その一心だった。

グラスに琥珀色の酒を零し、男は一息に飲み込む。喉が焼ける様に唸った。どれ程の出来事が最近で起きたのだろう。蛇口を思い切り捻り顔を洗った。何度も指で目と頬を擦る。夢なら覚めて欲しいと脳裏でで叫びながら。洗面器に向けていた顔を持ち上げるとそこにはつま先のない男が鏡にいた。

気付けば男はグラスをつま先のない男に放り投げていた。硝子が割れると娘の鳴き声が響く。「お前のせいだ!お前のせいで私の生活は無茶苦茶だ…!」つま先のない男の裾には砕けた硝子が光る。「誰なんだお前は…誰なんだよ…!」男は崩れる様にその場に座り込んだ。水道と娘の声が交錯する。

「癇癪癖は変わらないな。子供の頃からそうだ」男は一瞬 全ての音が止んだ様な錯覚がした。「そんな君をデーンは嗜めていた。あそこから逃げ出す時も」男は項垂れていた顔を上げる。「まだ思い出せないか?君がしでかした事を」「え?」「そうとも私は幻覚じゃあない。私は確かにここにいる」

「違う…お前は私の幻覚だ。薬を…飲まなきゃ」「そうかね?まあこの際どうでも良いが」男は無視して瓶を回し酸っぱい薬を飲んだ。「それは只のビタミン剤だ、思い当たる節があるだろう」「嘘だ…お前は幻覚なんだ!」「私の存在証明など些細な事だ。それよりも重要な事がある筈だろう?」

「重要な事?」「君は思い出さなければならない事がある。そう、かつて君が私に突き付けた願望をだ」男の脳が軋む。瞼の裏に過去の記憶が過ぎった。子供だった頃の自分の姿。子供の自分は叫んでいる。あの黄色い部屋で、つま先のない男を前にして強い意志を持って訴えていた。

「チャズ!」ブラウン菅のテレビが切れるように脳裏の映像が閉じた。「大きな声を出してどうしたの…?」悲壮な顔をした妻が男を見る。しかし明らかに動揺していた。「い、いや…」「またあの幻覚なのね?大丈夫、薬を飲めばすぐに治るわ。ここには貴方と私以外 誰もいないのよ?」

「思い出すことなんて何もないのよ」妻のその言葉がなければ、男は今でも以前の生活のままだったかもしれない。「…どうしてだ?」「えっ?」「どうして奴が言った事を知ってる?君にはわからない筈だ」妻の瞳孔が開く。途端、妻は狼狽し始めた。「まさか…そうなのか?」「違うわ…!」

「チャズ、貴方は病気なの…!子供の頃に起きた事故のせいで精神疾患があるのよ…!貴方が見ている男は幻なの!」妻は悲痛な顔で、それでもまっすぐにチャズを見て言った。それはまるで男に懇願しているかの様でもあった。普段は見せない妻の狼狽する姿、それは男の違和感を確信に導いた。

確かめなければ、確かめずにはいられない。気付けば男は妻の牽制を無視してつま先のない男に問いかけた。「…お前はここにいると言ったな?お前は…妻にも見えているんだな?」「ああ、見えているとも。そして、この声も伝わっている」そう言うと妻は腰を崩して項垂れた。

「とうとうこの日が来てしまったのね…」項垂れながら妻は呟いた。「わかってた、いつか貴方が気付いてしまうって」「君にも…見えているんだね」「ええ、でも私だけじゃないわ。この町に住む人は誰でも知ってる。つま先のない男の事も、黄色い部屋の事だって」その言葉に男は耳を疑った。

「どういう事なんだ…?」「貴方は確かに精神疾患を持ってるわ、でもそれは記憶障害であって幻覚ではない。ある理由で貴方をそういう風に仕立て上げた。それこそ町一丸となってね」男は開いた口が塞がらなかった。「貴方はただ1人の生還者なのよ、あの黄色い部屋、Backroomsからのね」

「私が生還者…?待ってくれ、皆 知っていたのか?つま先のない男もBackroomsのことも?」「そうよ、都市伝説としては有名だから。そして実際に被害も出てる」男は掌を額に着けた。目がちかちかする。「でも何故、私を囲い込むような事を…?」「私が聞かされたのは貴方が連れ戻されるから」

「Backroomsの住人であるEntity それらが貴方を連れ戻しにやって来る。つま先ない男もその1人だと聞いたわ」「私はその為にここにいる訳ではないよ」妻は無視して話を続ける。「でも貴方の意識外にあればそれはやって来ないと聞いたわ。だから貴方に幻覚だと刷り込む必要があったのよ…」

男の頭は終始 空白だった。ただこれまでほんの少しだけ抱いていた疑念の点が線になると、やがて一つの解が浮かび上がる。しかしまだ肝心な所が抜けている。「そんな町ぐるみの計画を誰が…」言葉の途中で男は独りでそれがわかった。「叔父さんか…」町一番の権力者の顔が脳裏に浮かぶ。

「そうよ…貴方の叔父さんが方々に回って指示したの」男は警察署で見た叔父の顔を思い出す。あれはどういう感情だったのか。「チャズ、これからどうするの?」妻は今迄の苦労が急に押し寄せたように力尽きていた。「社長に、叔父さんに会いに行くよ。話を聞かないと」「知ってどうするの?」

「貴方が本当の事を知った今、どうなるかわからない。それに…ずっと貴方を騙していた私の気持ちだって…」男は妻に寄り添うと強く抱き寄せた。「済まない、ずっと…無理してたんだね」妻は黙って男の胸に顔を埋めた。それは懇願だったのかもしれない。「大丈夫、私の気持ちは変わらないよ」

「君の事もフォウの事も」妻は黙って男の胸の中で頷いた。「でも確かめなきゃいけない。どうして叔父さんがそんな事をしたのか」そこで妻は顔を見上げた。妻の目先には確固たる意志を持った男の顔があった。「知らなきゃいけないんだ、どうしても」男の視線の先にはつま先のない男がいた。

「やっと決心がついたようだ」「…君が誰か知らないが、結果的にこの呪縛を紐解くきっかけをくれた事には感謝するよ」「それは何よりだ、これで私の役割も終わりだな」「君は一体…」「私の役目は水先案内だ、君がこちら側に来れるようにね」「それは私の味方と取っても?」

「さて、どうだろうか?君がこちら側に来たいのであればそうなるがね」「…行きたいさ、但しここに戻るつもりだけどね」そういうとつま先のない男は顎を指で摩った。「半世紀ほど経つが人間は実に興味深い、物質的な欲求よりも精神的な欲求を優先する傾向にある。我々とは真逆だ」

「君たちは我々を理解する事は出来ないし、認知するのが精々だろう。彼我の間は深く、遠い」つま先のない男の目は人のそれとはかけ離れていた。「それでも我々を良しとない政府は未だに研究を進めているがね、あのセンスのないスーツの男がそれだ」「彼を知っていたのか…」

「お互い手を挙げて挨拶する様な仲ではないがね。彼は今警察署で尋問されている様だ。君が連絡先を渡したせいだろう」「何だって…!?」「君の叔父に会う前に彼に聞いて置いた方が良いだろう、何故君が偽りの社会で生きる事になったか、その切掛をね」男は眉間に強く力を込めて瞼を閉じた。

男は警察署にいた。罪悪感を握り拳に込めながら。「署長、彼に会わせて下さい」「何の話だ?嫁さんがいるのに影でボーイフレンドでもこさえてた、なんて言うなよ?弁護士を紹介して欲しいなら話は別だが」「もうこの町ぐるみの芝居は沢山だ、夢なら覚めたよ」「…何の事だかわからんね」

「署長、君がこの町を自分の息子の様に可愛がっているのは知っている。Backroomsの怪現象に耳を塞ぎたい気持ちも承知の上だ。騒ぎを起こすつもりはない、ただ私は知らなきゃいけないんだ!私の身に何が起きたか…!」そういうと署長は帽子を目深に被った。「知らんね」男は机を叩いた。

「器物破損でブタ箱にぶち込むぞ。ケツの穴は処女なんだろう?」「良いとも、彼もそこにいるなら連れ出してくれ」「いい加減にしろ!こっちは政府に逆らってまでこの町を守ってるんだ!本来ならお前はどこぞの研究所でケツの穴までほじくり返される身分なんだぞ!それをお前の親父が…!」

怒鳴り声を最後まで吐き出す直前、署長は息を止めた。「…話は終わりだ、もう帰れ」署長は腕を組み、帽子を目元まで被り直した。男はその瞬間を見逃さなかった。男は署長のホルスターから銃を奪い、銃口を向けた。「何やってる…!ブタ箱じゃ済まなくなるぞ…!気は確かか!?」

「私は正気だが、時間が今にも私を殺しそうなんだ。彼に会わせてくれ」「…そうまでして日常を崩したいのか」「男らしくないからだ、このままじゃあな」「何だと…?」「自己犠牲はこの町の警官の必須条件だろう?子供はみんな警官に憧れる、この町の子なら尚更だ。私は彼を売ったんだ」

「私だって事務処理より警官になりたかったんだよ、署長。体力テストで落選してしまったけどね」「…そうだったな」署長は失笑した。「良いのか?この施策はある意味ではお前を守る為でもある」「…今だからわかるが、察しはついている」そういうと署長は小さな溜息を吐いて独房の鍵を出した。

「地下の奥、今朝がた捕まえたケチな盗人の隣だ。お前から上手いこと言っておいてくれよ」「善処するよ、町を守る為だったとね」署長は手を寄越して向こうに行くよう促した。男が署長に背中を向けるとカミさんに殺されるぜ、今年のバカンスは中止になるかもしれないんだからなと溜息を吐いた

警察署の地下は湿度がじんわりと高く、強い埃の臭いがした。人を歓迎する様な場所ではない、人を押し込んでおく鉄格子の奥にスーツの男がいた。粗野なプラスチックの長椅子に座ってじっと男を見つめていた。「おおい、いつんなったらお迎えなんだ?俺は埃アレルギーなんだ、鼻が痒くてよ」

「…済まない、私が君の名刺を差し出したばかりに」「こういう事態もない訳ではないですよ、こんなにも劣悪な場所は初めてですが」男は素直に関心すると同時に苦笑した。「所で貴方がここにいるという事は…」「ああ、魔法は解けたよ」「私から見たら呪いですがね。で?どうするんです?」

「叔父に会いに行くよ、何故こんな事を町ぐるみで取り組む事になったのか聞かなくては。その前に君に事の経緯を聞こうと思って…」「成程、Ghostにそう指示されましたか」「…済まない、何だって?」「あちら側の存在をEntityと総称し、貴方の言うつま先のない男をGhostと呼称しています」

「彼は一体…」「その話をする前に煙草を蒸して頂きたい」「私は吸わないよ、子供が出来てからは止めた」「いえ、蒸かすだけで良いのです。煙草の煙は奴らの目や耳を眩ませる。こうしている間も二人の会話は丸聞こえだ」男が訳がわからなかったが、ふと壁に妙な皺があることに気付いた。

よく見るとその皺は眼球や鼓膜の様な形をしていて、気付けば独房のあちこちに浮き出ていた。男は慌てて側にあった戸棚を引っかき回し、赤と金色の紙煙草を見つけると夢中で火を点けた。煙を全体に撒き散らすと、目や耳は痙攣して消えた。「俺にもくれよ、そしたら良い子にしてるからよ」

捕まった盗人に煙草を渡すと嬉しそうに吸い始め、奥に引っ込んだ。「あの煙草は特別製かい?」「私の好みである事を除けばごく普通の煙草ですよ。最近わかった事で奴らEntityの一部はニコチンやタールに対してアレルギーの様な反応を示す事がわかったのでね。これで情報を漏らさずに済む」

「だから初めて会った時も煙草を蒸していたのか」「ええ、Wanderer(彷徨者)の殆どは奴らからの熱心なアプローチに苛まらされます。特に我々が接触すると嫉妬が凄い」「…色々と聞かなきゃいけない事があるみたいだ」「署長と折り合いをつけた様ですね、でなければ強硬手段を取る所でした」

「ああ、君を解放する許可は貰ってる。その、気を悪くしないで欲しい。署長はただ…」「ご心配なく、こういう例は過去にない訳ではないので。それより貴方の叔父に会いに行くのでしたね。会社まで送りましょう、その途中で話すべき事もあります。それと私が調査してわかった事も共有したい」

黒塗りの車に乗って二人は橋を渡る所だった。「とある政府の機関は古来よりBackroomsの存在を調査しています。私はその役人です。担当しているのは貴方に取り憑いているGhostもそうですが、Wandererである貴方を観察、保護する事も仕事の一つでした」「済まない、そのWandererというのは?」

「古来よりBackroomsに捕らわれたり魅せられた人は後を断ちません。ただその中でも運良くあちら側から抜け出せた人間がいます。我々はその人間を保護したり調査しているのです。今の所 何故彼らが逃げ仰たのかは不明ですがね」「ちょっと待ってくれ、なら私は…」

「ええ、貴方もあちら側から戻ってきた類の人間ですよ」男は唾を飲んだ。「…当時の背景を、教えてくれ」「以前と違って心理状態が安定している様ですが、取り乱さないで下さいよ。またあちら側に引っ張られてしまう」「…努力するよ」スーツの男は窓を少し開けると、煙草を蒸し始めた。

「ネイムという名前に記憶は?」「いや、知らない」「20年前、子供二人の失踪事件がありました。町の警察官を総動員しても見つからず、神隠しなんて当時の地元テレビ局は謳っていましたね。実は我々もこの事件については関与していました。ただ捜査は一向に進展しなかった、手がかりもない」

「事件が迷宮入りの札を着けられる直前、行方不明だった子供の一人が発見された、何の予兆もなくふらりとね」「まさか…」「ええ、それが貴方なんです。ただ問題なのは二つ、貴方がどうやってあちら側から戻ってこれたのか、そして何故 貴方だけなのか?我々も傾いた首が戻りませんでした」

「見覚えありませんか?当事者の貴方なら何か知っている筈だ」一瞥するスーツの男を他所に男はじっと自分の靴を見詰める事しか出来なかった。「…結局その事件はもう一人の子供が見つからないまま、事故として片付けられました。貴方の体が濡れていた事から、水難事故としてね」

男は必死に昔を思い返したが、その部分だけの記憶が虫食いの様にぽっかり抜けていた。ただ一瞬だけ思い出せるのは、黄色い部屋で自分を呼ぶ声がした時だけだった。「…大丈夫ですか?」煙草を蒸かせる。「ああ、重要な事は思い出せないけどね」苦い煙のにおいが余計に男の頭を曇らせた。

「当時 何があったのか、貴方の叔父なら何か知っているかもしれません。その意味でも問い詰めるべきです。尤も、簡単に口を開いてくれるとは限りませんが」「…そうだね」それから会社に着くまで二人が口を開く事はなかった。その代わり点いたままの煙草の火がじりじりと小さく騒いでいた。

会社に着くと二人は足早に社長室に向かった。有権者の会社とはいえ巨大な企業ではないから、社長室の扉を開けるまでそう時間はかからなかった。「叔父さん、お話があります」二人を待ち構える様に社長は椅子に座っていた。「社内では社長と呼べと言った筈だが」

「すいません…」目に殺気にも似た重圧が乗ると男は思わずたじろいだ。「今は業務中だろう、仕事に戻れ」「…社長、どうして私に魔法をかけたんですか?」辛うじて漏れた声は震えていた。「何の話だ?」「もう全部わかったんだよ、叔父さんが町に呼びかけて私を騙していた事は…」

「教えてよ、叔父さん。何か訳があって私にそんな事をしたんでしょう?叔父さんなら何があったか知っている筈だ」「知らんな、仕事に戻れ」「叔父さん!」叫び声にも似た男の訴えが部屋に響く。その光景に社長は驚いた。それは男の顔が怒りよりも助けを求める色をしていたからかもしれない。

スーツの男は帽子を目深に被り、一連の光景を眺めながら尋問を決めていた。しかし思わぬ社長の声色に意表を突かれる。「…お前は昔から変わらんな、思わず笑ってしまったよ」死に物狂いの男とは裏腹に社長は困った顔をしながら頬を緩めていた。「あの時もそうだった、泣きそうな顔で…」

社長は目を閉じて当時の光景を思い返していた。その表情はどこか嬉しそうでもあり、哀愁も帯びていた。「良いんだな?お前にとって酷な話になる」目を開けるとまた元の重圧に満ちた険しい顔に戻った。「…ええ、覚悟の上です」そういうと社長は席を立ち、側の戸棚から古いアルバムを出した。

アルバムの中から写真を取り出す。そこには小さな頃のチャズともう一人、身なりが粗雑な男の子が写っていた。「役人の前で話す様な事でもないが、お前には友達がいてな。ネイムという名だが、記憶にないだろう」男はその写真を見ても確かな記憶がなかった。ただぼんやりと見覚えはある。

「子供の頃のお前は体が弱くてな、余り友達がいなかったが不思議とこの子とは仲が良かった。生活はお世辞にも整っているとは言えなかったが、利口な子だったよ。大人なればうちで働いて貰いたかった」「この子のご両親は?」「今は三つ先の町で暮らしている、私が生活費を工面する条件でな」

「それも私の為にやったの?」「そうだ、あの事件を徹底的に隠滅する為に私から説得した。金も積んだよ、汚い手段も取った。しかし…それも今日で解放されるな」社長は少し困った様な顔で頬を緩めた。「私は気付かない所で色んな人に迷惑を…」「いや、全て私の判断だ。お前のせいではない」

「そうしなければお前はBackroomsとやらに連れ戻されていたかもしれんからな。それと当時の役所からもそれを勧められていた」社長の鋭い視線がスーツの男に向いた。「…やはりそうでしたか、予想の範囲です。記録にはありませんでしたがね」帽子と顔の隙間から動揺のない目が浮いた。

「それであの時に何があったか…教えて下さい。私は一体どうなったんですか?」「行方が知れない中、お前はふと道路の真ん中に現れたそうだ。雨も降っていないのに体は濡れていた。最初は付近の住民がお前を見て通報した。私も急いで駆け付けたが、お前は頑なに口を閉じていたよ」

「警察の尋問を押し除け、私はお前と二人になって聞いてみた。話したくない事があるのか?と…するとお前は」男の顔が強張り、「友達を置き去りにした、そう呟いた」崩れた。何となしに男は覚悟していた。名刺を差し出した事はきっと子供の頃から変わっていないのだろうと。私は卑怯者だ。

「私はそれを聞いて隠蔽を決めたよ。それ以上の事は聞かなかった、いや聞いてもお前は答えられなかっただろう」男は社長の、叔父の好意を噛み締めていた。深掘りする事も問いただす訳でもない。ただ自分の為に尽くしてくれた事が嬉しかった。それが子供がいない環境の代わりだったとしても。

「これが…私の知っている全てだ。お前から何があったのか聞く事は出来なかったし、聞くべきではないと思っていた。だがきっとお前は幼いながらも罪悪感に苛まされていたのだろう。…済まない、お前からしてみれば下世話だったな」「…いえ、叔父さんが私の家族で良かったと思っていますよ」

「ありがとう、教えてくれて」そういうと社長は静かに頷いた。「行きましょう、知るべき事は知れたから」スーツの男は帽子を取って社長に一礼し、二人は社長室を出た。「さて、これからどうしますか?経緯は知れましたが、肝心な部分は謎のままだ」「あっちに戻るよ、彼に会いに行かなきゃ」

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