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短編小説 無色のトリコロール

 深夜にモーターが軋んだ悲鳴を上げ、私は一気に引きずり込まれた。首が締まり、ひゅうと枯れた呼吸が口元から漏れる。
 その日、私はとても疲れていた。会社でプレゼンに失敗し、精神的に追い込まれていた。思い返せば、ここ数週間は満足に眠れていない。
 全てが嫌になり、資料をシュレッダーにかけたときだった。あっという間に、ネクタイが吸い込まれた。呼吸ができなくなり意識が遠のく。いつもならスイッチをオフにしただろうが、今日に限って頭が回らなかった。どうでもよくなっていたのかもしれない。
 ぶつりと音を立て、唐突に終わりが訪れた。私は小さな絞首台から開放され、倒れこんだ。
「どうして……」
 見ればネクタイが真っ二つに千切れていた。奇妙なことに、はさみで切ったかのように断面が綺麗だった。
 呆然としつつも私は正気を取り戻していた。シュレッダーを逆回転させ、ネクタイを救出するとそのまま家に帰宅した。
 帰りの電車で先がぼろぼろになった紺色のネクタイを見て、気が付いた。これは父の形見だった。使い込まれた古いものだったが、上等の生地で出来ていた。量販店ではなかなか見ないものだ。
 帰宅後、私は母に経緯を話して謝った。
「あんた、じいちゃんと父さんに守られたんだわ」
「え、どういうこと?」
 聞けば、このネクタイは祖父から受け継がれていたものだった。祖父は海軍士官で、このネクタイは軍服の一部だった。戦時中に祖父は南方の島に送られ、そこで酷いケガを負った。そのとき止血のためネクタイを使ったらしい。
 戦後、祖父は自分の息子にネクタイを譲り渡した。父は古ぼけたネクタイを締め、東京に出て救命士となった。
 ある日、非番の日に父は交通事故に遭遇した。幸い父にけがはなかったが、ケガ人が複数出た。そのとき父は自分が締めていたネクタイを二つに切り、重傷者たちの手当に使った。
「もうね、びっくりよ。だって、その日が初デートでお父さん大遅刻だったんだから。でも仕方ないわね。そういう人だし」
 その後、父はネクタイを修繕してもらったそうだ。
「なんか、最近疲れているみたいだったからさ。お守り代わりにあんたに渡したのよね。もう今日は早く寝なさいよ。なんなら明日は休んだら?」
「うん……」
 部屋に戻り、私は改めて千切れたネクタイを手に取った。いつの間にか鬱屈した気持ちが晴れて軽くなっていた。
 きっとあのとき私は解放されたのだ。
 翌日、私は会社を休むと腕の良い仕立て治し屋を探した。
 数週間後、古ぼけたネクタイに新たな生地が加わり蘇った。
 数か月後、私はそれを締めて新たな職場へ向かった。
「行ってきます」
 見えないトリコロールで繋がれたネクタイ。
 それは祖父を生かし、父に活かされ、私を生まれ変わらせた。

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