『一文笛』

2021年6月13日に行われた三遊亭圓楽師匠と伊集院光さんの二人会。チケット発売日には、私もスマホ・iPad・パソコンを準備して待機していたが、多くの人と同じく、秒殺で即完してしまったチケットを手に入れることはもちろんできなかった。
ということで、伊集院さんの感想を楽しみにしていた6月14日の『伊集院光 深夜の馬鹿力』の中で、圓楽師匠が演じた演目『一文笛』について話しているときに「はっ!」と気付かされることがあった。

『一文笛』という演目は、桂米朝師匠の創作落語である(『一文笛』がどんな内容なのかは、実際に音源や速記などで触れていただいたり、今週の『深夜の馬鹿力』の伊集院さんによるあらすじを聞いていただいたりしてもらうとして…)。
また、昭和以降に誕生した演目で、他の落語家も演じる古典落語の域まで到達したのは、『一文笛』ぐらいしかないというのを何かの本で読んだ(真偽は知らない)。
『桂米朝集成 第1巻』に掲載されている、放送作家の織田小吉さんとの対談の中で、『一文笛』について触れられていた。『一文笛』は昭和30年代に誕生した噺で、対談が行われた平成16年の時点で

米朝 (中略)東京の連中も何人か演ってくれています。最後に来たのは、林家こぶ平かな。「もう、教えることもないから、勝手に演りィな」と言うて、今、演ってると思いますわ。

と語っているように、『一文笛』は上方を飛び出し、東京でも普通に演じられている。私は東京の落語家さんによる『一文笛』をまだ聞いたことがなかったので、圓楽師匠が演じているのを見てみたかった…と思いつつも、書きたかったのはそんなことではない。

伊集院さんが語っていた『一文笛』のあらすじを極限まで抽象化すると、「おもろいなあ。オチた。あれ、まだ続くんや。人情噺になった。エッ!?終わった!」みたいな感じだと思うのだが、私も初めて聞いた時の感想がまさにそんな感じだったのを思い出した。いろんな感情を揺さぶられた挙句、最後に一気に現実に戻されるような展開が想像の斜め上すぎて、「感動的な話で終わってもよかったのに、どうしてこんなバカバカしい終わり方にしたんだろう。」と思っていた。

そして本日。電車の中で先ほど書いた『桂米朝集成第1巻』を読んでいると、米朝師匠が考える落語論についての一節が目に入り合点がいった。

理想的な落語とは、このような芸なのです、大変ドラマティックに進めてゆく「仕方噺」で、演者が消えてしまうという話法をもっている。そして「落とし噺」である。サゲで一瞬にドラマでもないものにしてしまって、聴き手との共同作業で作り上げた夢の世界を、いともドライに壊してしまってオシマイとなる——そんな芸です。

『一文笛』に対する、笑いあり、感動あり、そしてオチの一言で一気に現実に戻されるという感想は、まさに米朝師匠が語る理想的な落語そのもので、改めてなんだか先人の手のひらの上で踊らされているような思いがして、凄さに感動するような悔しいような、不思議な気分で頭がクラクラしてきた。

それにしても……。二人会、行きたかったなあ。


(参考文献)
桂米朝集成 第1巻
https://www.amazon.co.jp/桂米朝集成%E3%80%88第1巻〉上方落語-1-桂-米朝/dp/4000261479

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