漫談の歴史に関する覚え書き

漫談は一人芸、漫才はニ人以上で行う芸、ということは誰しも知っていると思うが、漫談と漫才、どちらの方が歴史が古いのか、またなぜ両方とも『漫』という字を使っているのか。漫談の誕生について、徳川夢声が書いた『話術』に詳しく書かれていたのでメモしておく。

大正十二年のころ、いつも暗やみで喋っている私たち説明者は、明るいところで喋りたいという欲望をもっていたのでしたが、丁度神田キリスト教青年館で、音楽など混えたヴァラエティ楓の会が催されたのを幸い、私は出演して、漱石の『吾輩は猫である』の中から「首縊りの力学」の条(くだり)をとりあげて、一席口演しました。
(中略)
で、私はこのとき偶然にも、後年の漫談をやったわけですが、まだ漫談という商標は、この時分できていませんでした。
この前後に大辻司郎君(惜しくも飛行機事故でなくなった)が落語家を志し、三代目小さん師のところへ、一時稽古に通っていました。
(中略)
さて、その後にいたり、ある日のこと大辻君が神田東洋キネマの楽屋に現れて、
「いよいよ、僕はハナシでやって行こうと思うのですが、何か名前をつけないと、どうも落語と一緒にされるとまずいです、どうでしょう。マンダンというのは?漫画があるんですから、漫談があっても好いわけですが……」
と私に相談しました。
「漫談か、そいつは面白い。」
と私も賛成しました。
(中略)
漫画から漫談を思いつき、この商標を貼り付けたのは大辻司郎君でした。
それから大辻君は、例のヤリカタで、漫談を大車輪で売り始めました。世間が、漫談という名に、関心を持ち始めたのは、まさしく彼の手腕であります。

まとめると、大正時代に「漫画みたいなおしゃべりをする芸」として大辻司郎が『漫談』と命名。
また、昭和5年、鼓や楽器、踊りを使わない掛け合いだけの新たな万歳(万才)が登場したため、古い万才と新しい万才を区別するために、漫画人気にあやかって『漫才』と命名、ということになる。全く違うアプローチで誕生した話芸だが、両者とも漫画をヒントに『漫』の字を使うに至ったという事実も面白い。

漫談は活動弁士だった徳川夢声から始まって…みたいな理解の仕方をしており、恥ずかしながら、大辻司郎という名前をこの時まで知らなかった。

ちなみに、徳川夢声は元祖マルチタレントと呼ばれる人物で、元々は無声映画の上映中にセリフや内容を解説する活動写真弁士だった。トーキー(映像と音声が一緒になった映画)の登場後は、漫談家、ラジオやテレビの司会者、俳優、作家などとして活躍。『宮本武蔵』の朗読で国民的人気を得た。徳川夢声の『話術』は、2018年に新潮文庫から復刻されたので、容易に手に入りやすい。天才的話術を持つ徳川夢声が演説やスピーチ、座談会に至るまで、あらゆる場面での話し方に関するアドバイスが書かれているのでオススメ。

(参考文献)
徳川夢声『話術』新潮文庫

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?