大阪弁はいつ東京に広まったのか(2)

以前、大阪弁が全国的に普及したのはいつなのかということについて書いた。
https://note.com/bill_yamazaki/n/nbd5234ce701b

まとめると、
・今では標準語と同じぐらい市民権を得ている大阪弁(関西弁)だが、昔は大阪弁も一方言であり、東京の人には伝わらなかった。
・尾上圭介著『大阪ことば学』によると、『鶴瓶・上岡 パペポTV』の頃をきっかけに東京の人にも大阪弁が認知され始めたんじゃないか、とのこと。
・1987年、TBSとフジテレビが24時間放送に。それに伴い、深夜の放送枠を埋めるために、日本テレビでは関西ローカルの番組が関東で放送されるようになった。
・それに伴い、大阪弁が広く関東圏に認知され、広まるようになった。

このように書いたのだが、先日発売された『明石家さんまヒストリー2 1982〜1985 生きてるだけで丸もうけ』に明石家さんまさんと大阪弁・関西弁に関する記述があったので追記。

『明石家さんまヒストリー』は、"明石家さんま研究家"のエムカクさんが、過去のさんまさんのインタビューやテレビ・ラジオでの発言をまとめ、明石家さんまという芸人が何を考え、どのように生きてきたかを記した本である。その中に、さんまさんが佐藤浩市さんと共演し仲良くなった、1982年12月28日に公開の映画『次郎長青春篇 つっぱり清水港』の撮影時のエピソードとして、以下のようなことが記載されている。

さんま「大阪弁がまだ、あんまり東京で認知されてない頃ね。浩市君が僕らの真似して、大阪弁をしゃべってたんですよ。ほんだら、浩市君の友達が来てねぇ、"浩市、なにしてんだよ"とか言うて。"さんまさんたちとブラックジャックやってまんねん"って、浩市君が大阪弁で言うたら、"やめろよ、そんなダサイ言葉よぉ"って言うて。"やめろってイモくせー"とか言うて。浩市君は気ぃつこて、"まーまーまー、バカなこと言うんじゃないよ"って、さんまさんがいる前でっていう感じになって。
(中略)
それが悔しくて。ダサいとかイモくさい言葉って言われたのがものすご悔しくて、もう絶対、大阪弁の主役の恋愛ドラマをやるんだって心に決めたの」
さんま「それまで大阪から東京へ来た人は、東京弁をしゃべろうとしてはったのよ、合わすために。でも俺はそのとき、大阪弁は絶対やめへんとこうと思って。大阪弁の男が主人公のドラマをするまで大阪弁はやめないと思ったの」
さんま「(中略)それから番組とかで、大阪弁をわざと強調しながら使ってたんですよ。
(中略)ほいで、伝わらない言葉を排除していって、今に至るんですよ。だからこれは大阪弁じゃなくて"さんま弁"なんですよ。純粋な大阪弁じゃないんですよ。どぎつい言葉とか、人が嫌がるイントネーションは変えてますから。ほいで、漫才ブーム、『ひょうきん族』の力もあって、どんどん大阪弁が東京に入っていったという形ですよね。

さんまさんが東京でも活躍し始めたころ、やはり大阪弁は今ほど認知されていなかった。また、本来の大阪弁よりマイルドな喋りに感じるのは、大阪弁じゃなく"さんま弁"に変えていったということに加え、『オレたちひょうきん族』の中心メンバーであるさんまさんは奈良県出身、島田紳助さんは京都府出身など、もともと純粋な大阪人ではなかったということも大きいのかもしれない。
以上のことを踏まえると、大阪弁の広まり方は、今のところ以下のような感じに。

・昔、大阪弁は一地方の方言であり、東京の人には伝わらなかった。
・1980年、『THE MANZAI』スタート。B&Bをはじめ、上方の漫才師が活躍し始める。
・1981年、『THE MANZAI』で活躍した芸人を中心に『オレたちひょうきん族』が放送開始(11月からレギュラー化)。
・1982〜83年ごろ、明石家さんまさんが意識してテレビで大阪弁を使い始める。

・1984年、『笑っていいとも!』にて、それまでテレビ番組では行われてこなかった雑談コーナー『タモリ・さんまの日本一の最低男』がスタート。大阪弁の雑談がテレビで流れる。
・1985年、『オレたちひょうきん族』が最高視聴率を記録。

・1987年、TBSとフジテレビが24時間放送に。・1988年、『鶴瓶・上岡 パペポTV』が日本テレビで放送開始。大阪弁が全国に広がる。

1984〜87年あたりに何かしらの出来事があったかもしれないが、何か分かり次第、追記しようと思う。


(参考文献)
エムカク『明石家さんまヒストリー2 1982〜1985 生きてるだけで丸もうけ』新潮社
『明石家さんまヒストリー』の第2弾。さんまさんの転換点の時期ということもあり、1982〜85年の出来事だけで400ページ近くの本になるということに驚き。

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