話術と"手"

漫才師を目指して上京、初めて公園で漫才の練習をしたときのこと。最初に感じたのは、手の置き所に困るということだった。なんとなくふわふわとして所在ない。これは、腹の前で手を重ねたり、手を後ろで組んだり、他の漫才師の身振りを真似ることで落ち着いた。

そんなある日、とあるライブに出演したときのこと。ライブ後、作家さんに「漫才師みたいな手つきはするな」とダメ出しを受けた。当時、もっとも血気盛んだったころの私は、無言で首は縦に動かしながらも「漫才やっとんねん、わけわからんこと言うなや」と内心腹が立っていたのだが、今ならなんとなく分かる気がする。要するに自然体で喋りなさいということなのだろう。

もともと漫才とはそんなに難しいものではないのだ。舞台の上で、二人がおもしろい会話をする、それだけのことなのだ。

松本人志さんの大ベストセラー『遺書』にはこのように書かれている。結局は、私が『漫才師の型』のように感じていた手つきは、ハタチそこそこの貧乏くさい男には不自然だったのだと今では感じている。

そのダメ出し以降、漫才を見るときも、内容とともに手つきや手振りが気になるようになってしまった。また、漫才などの演芸に関わらず、スピーチや演説などでも、喋り手の手の癖が気になって話が入ってこないという経験は誰にでもあるだろう。

以前引用した徳川夢声の『話術』に、話芸における手の使い方が難しいかが書かれている。

素人が舞台で芝居をするとき、真先に困るのは手の置きどころです。手を何処へやったら好いのか見当がつかない。手が邪魔になって困るのです。演説の場合もその通りで、一旦気になり出すと、手の処分に往生して、喋る方がお留守になったりします。
福沢諭吉が、三田の高台に立って、生れてはじめての熱弁を振るった、これが一説にはわが国演説の始まりということになっていますが、そのときさすがの彼が、両手の処置に窮し、いろいろ苦心の結果、両腕を胸のところで組んで、どうやら落ち着いた、という話が伝えられています。諭吉先生のような、大人物にしてしかりです。普通の人間では手が気になって、演説が巧く行かないなど、常にある例です。


1万円冊になるような人でも手の置きどころに困るんだから、手つきがおかしくても「ま、いっか」という気になってくるがそうもいかない。ちなみに、続きはこんな感じ。

しかし、いかに好い形でも、終始そのままでは、当人も、見ている方も、飽きてきます。演説の進行に従い、適当に形を変えるべきであります。あんまり、目まぐるしく、体操の如く恰好を帰るのは、もちろん、みっともなくていけません。
(中略)
要は、見た目がギコチなくないよう、極く自然に見えるよう注意すればよろしい。


結局は、落ち着くところに手を置いておく、しかしそれだけだと話が単調になるので、しゃべりの盛り上がりや内容に合わせて動かしなさいということだろう。また、漫才中の手の位置については、『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』という桂米朝師匠と上岡龍太郎さんの対談本の中で少し触れられていた。

上岡 それから漫才で最初に困るのは手の位置ですわ。舞台でしゃべっている時に手をどこへやってええか分からん。なにげない手の位置というのが難しい。自然にやりゃええンですけどね。

米朝 それが難しい。手の置き具合がね。そう考えると十組おったら皆、手ェの位置が違うンやろな、あんまり気ィつけて見たことないけどな。

上岡 手は難しい。そやからいとし・こいし先生なんかホントにうまいことスッと立ちはるなと思いました。

米朝 ちょっとポケットに手を入れたりね。

ロカビリーバンドの司会者として若干18歳にして既に喋りで稼いでいた上岡龍太郎さん。同じ話芸でも漫才の手付きとなるとまた違うやりにくさがあったのだろう。そして、夢路いとし・喜味こいし先生がいかに自然体で漫才に臨んでいたかがよく分かる。

また、桂米朝師匠は、著書『落語と私』に、落語の中における手の演技について分かりやすく書いている。

立体感のつくり方
人さし指を出して、物を指し示す場合でも、ちょっとした要領があります。お能の方に、謡(うたい)に少しおくれて、動作をおこす……という教えがあるそうで、たとえば「月」という謡をきいてから月をさし、「花」ということばが発せられてから花をみる。落語の場合もそれといっしょで、「火鉢」と言ってから指をだせば、お客には、その示された場所に火鉢が見えるわけです。
「その財布……」というセリフが、お客の耳にとどいた時に、すっと前を指さして、そこへ視線をそそぐ。そうすればそこに財布が見えるわけで、何も言わずに漫然と指をつきだしてから「その財布を……」と言っても、そのさししめす動作による効果はうすくなります。

落語の技術的なところは全く分からないが、能や落語の世界では、物を表す言葉が出てきてからその物がある場所を指で指し示すというのが正しい手の使い方であるらしい。

現役の漫才師の方々は手についてどのように思っているのか、一番身近なウエストランドさんに聞いてみよう聞いてみようと思いつつ、結局会ったら「『ドラゴンボール』でまた変なところを見つけました」とか「今、放送されてる『ダイの大冒険』ではダイとバランと戦っています」とかそんな話にしかならないので、機を逃し続けている。


(参考)

松本人志『「松本」の「遺書」』朝日文庫

徳川夢声『話術』新潮文庫

桂米朝 上岡龍太郎『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』朝日新聞出版

桂米朝『落語と私』文春文庫

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