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自分の価値観で生きれるようになったら、幸せが増えて、人間関係も良くなった

※誤って記事が削除されたため、2020年10月3日の記事を再掲致します。

ここ10年、徐々にだが、自分の価値観を主体に生きている感覚がある。
他人の評価や世間の価値基準に左右されることが少なくなった。

誰かの人生を生きなくなった。自分の人生を生きるようになって、幸福度がぐっと上がったように思う。


他人の成功やステータスを羨ましいと思う事が少なくなった。
羨ましいとは思っても、嫉妬の感情に繋がらなくなった。他人の成功を心から素直に称賛できるようになった。

他者への依存や責任転嫁が少なくなった。
自分の喜怒哀楽の感情の責任は自分にある。と言う事を実感した。
人の目を気にしたり、人の顔色を伺う事で自分を押し殺す事がなくなった。
(※他人を無視してワガママになることではない)

変に気を遣わないで、自分を素直に出すと、逆に人間関係が良くなった。
フラットな人間関係に囲まれていき、幸せ度が上がっていった。

他人の価値観で生きる苦しさ

他人の価値観で生きるってどういう事だろう。

「他人の価値観」というものを基準に生きてしまうと、自分が意識していなくても、つい他人の意見を気にしてしまい感情が振り回され、疲れ果ててしまいます。
特に会社勤めだと「上司の価値観・会社の理念・業界や社会の常識」に合わせる事を求められます。
他人の価値観を気にしないコツ』より


世間に広く浸透した価値観が、あたかも大勢に当てはまる絶対的な価値観として独り歩きする事がある。

・学校の偏差値ランキング
・なりたい職業、就職ランキング、転職ランキング
・年収ランキング
・知能指数(IQ)による賢さランキング
・会社での役職や出世争い
・見栄のための、高い家賃、衣服、高いレストランでの食事・・・
などなど

最初は比較しやすいように誰かが定量化した評価軸が、そのうち独り歩きする。
世間に浸透した評価軸が人生の選択に大きな影響を及ぼす。

■ 経営を勉強したいのだが、偏差値はxx大学の法学部の方が高いので、法学部を受験する
■ 総合商社から内定をもらった。あんまり興味ないけど、周りから「凄いね!」と言われたので入社したくなった。
■ 本当に関心のある会社・職種ではなく、年収の高いところに転職・就職する
■ 仕事ってよりも同期に勝ちたいから競争に勝ちたいから出世する
などなど・・・

世間の価値基準はとても強い。意識していないと簡単に世間の価値基準に引っ張られる。
長い時間、自分の”大切なこと”に背を向けて、世間の価値観を盲信していると、いつのまにか自分を見失う。
自分を見失うと、世間の価値基準が自分の価値観にすり替わる。
本当は違ったのに。。

例えば、
・本来、何かの夢を叶えるために始めた事が、いつのまにか、他人に優位に立つ事が目的になっている。
・楽しいと思って始めたのに、いつのまにか、他人と比較して嫉妬心を燃やし辛くなっている。
・自分の信念で始めたのに、いつのまにか、他人に認められる事が最大の優先事項になっている。(自己承認欲求)
・社会を良くしたいと思って始めたのに、いつのまにか、自分の保身が第一優先になっている。
・幸せになりたいと思って始めたのに、いつのまにか、他人との差異ばかり気になってコンプレックスになっている。

こういう経験はしている人は多いのではないか。

少し自分の話をしたい。
新卒で入社した頃の自分は、振り返ると、浅くてミーハーな一面があった。

当時は、自分をミーハーだと微塵も思っておらず、好きなことに向かって新しい事にチャレンジしていると考えていた。
でも、振り返ると、考えも浅く、世間の流行りがカッコいい!と感じてただけだ。

カッコいい会計士の先輩と出会ったら、会計士になりたいな~と思ったり、
MBAに行っていた先輩がデキる人だったので、MBAを目指そうと思ったり、
金融危機の後に、不動産REITが流行ったので、行きたいと思ったり、
会社再生が流行ったので、ターンアラウンドマネジャーになろうと転職活動してみたり、、


当時のメモを見返すと、表面的で浅い内容が多く、恥ずかしくなる。。

会計の勉強、MBA留学準備や転職活動など色々手を出しては中途半端になっていた。


コンサルタントの仕事は好きだったし、楽しかったが、
入社3年目くらいまでは出来が悪く、評価も高くなかった。
アップオアアウト(※)のコンサルティング業界。同期より昇進が遅れると肩身が狭くなる。

※アップオアアウト(Up or Out)とは、「昇進するか?もしくは退職するか?」というコンサル会社の昇進の考え方。昇進できない人材は辞めてもらうというもので、出世をしなくても社内で仕事を与えられ続けてもらう終身雇用制度とは相反する考え方。


元々、出世欲もなく、昇進への関心も無かったはずなのに、周りとの競争に出遅れると、嫉妬心も湧いてきた。

当時を振り返ると、昇進が遅れて自信を無くし、どんどん卑屈になっていった。
”出世欲”という元々、自分になかった価値基準。
周囲の価値基準に心が囚われていった。

自分の価値観を育てる

転機となったのは、社会人4年目。
大きなケガをして数か月出社できなくなった。
自分探しを経て、社内のボランティア制度を活用し、東アフリカのケニア、電気水道のないマサイ族の村で9か月間、現地のNGOの経営改革、組織改革に従事した。

生活がガラッと変わる。
前週までは赤坂の高層ビルで働いていた環境から、近所に象やシマウマが徘徊する環境で働く事になる。
これまでの常識は通用せず、価値観は大きく崩れた。

会社に復帰した時も、マサイの村にいた環境から、一転、六本木のオフィスで働く環境に身を置き、今度は逆カルチャーショックを味わった。

この間、何度も自分の常識を疑い、壊すことを繰り返した。
その過程で、徐々に”自分なりの価値観”が育っていった。

ミーハーで浅はかだった考えに、実体験が伴うと、少しずつ深みも出てきた。
経験を通した失敗、試行錯誤。そこからの学び、教訓。。。
巷に溢れる言葉でも、実体験が伴うと、魂がこもる。

これまでは、世間の流行りにたいして、あまり疑いをもたずに受け入れてたことが、
『あれ?それはおかしい。本質ではないのでは?』と考えるようになった。


例えば、自己啓発本。


以前は、上手くいかない事があると、自己啓発本を買って満足していた。
読んだ後に、『なるほどー。凄いなー。』『そっか、これを試せばいいのか』と表面的な理解をして終わり。
よくて、本の中で紹介された”あなたを変える行動”を試してみるが、表面的な理解なので長続きしない。


自分ごとに落とし込めていない。
結果、”やった”感はあっても、長続きしない。変化には繋がらない。

だから、数か月後に、似たような問題にぶち当たって、また本を買う。。。
この繰り返し。。

しかし、自分の価値観が育ってくると、読み方が変わる。
読み方というか、本への接し方が変わってくる。
実体験から得た学びや教訓をぶつけて、本と対話できるようになった

本を対話相手とみなすと、著者の主張の背景を読み取るようになる。
どういう状況で、どういう経緯を経て、失敗をして、その行動・結論に辿り着いたのか?に興味を持つ。

著者が自分と同じような主張であれば、同じ結論を導いた経緯は参考になるし、思考が整理される。
逆に主張が異なれば、その背景、前提条件を読み解くと、気づきは大きい。
具体的な行動にも落ちやすい。

表面的な理解や経験では、本と対話できない。
実体験を通し、試行錯誤して導いた”何か”があるからこそ、対話が成立する。
その”何か”の集合が価値観になる。

その後、いわゆるキャッチ―な自己啓発本はどんどん買わなくなっていった。
誤解を与えそうだが、キャッチ―なタイトルの自己啓発本は、中身が浅く、対話相手として不十分に感じる事も多い。(もちろん、そういう本ばかりじゃない)


こうして、考えの軸を持つと、『自分にとって大切な事はなにか?』を考える習慣がついてくる。
表層的な、xxランキング、年収、資産額などの評価軸では大事なことを表さない。
本当に大切な事に向き合えるようになった。

”世間”に惑わされない

ある程度、自分の価値観が整理されてくると、世間で言われる常識、社会の空気を一歩引いた目線で、相対化して捉えるようになる。

メディアに流れる情報、ソーシャルネットワークに流れる情報、どれも移り変わりが早く、気まぐれだ。
一見、価値観に見えて、飽きっぽくて、気まぐれで、単なる流行なものが多い。


”気まぐれ”に心を囚われている事を認識できるれば、自然と離れていき、ちょうど良い距離感を保てる。

それと同じように、周囲の目を気にしなくなった。
無理に努力して好かれようとしなくなった。



相手に敬意を払う事、尊敬の念を抱く事、相手を尊重する事、相手に合わせることは大事だが、それと相手に好かれるために自分を曲げる事は違う。
その違いを徐々に意識できるようになっていった。

幸せを感じていく


自分の価値観を意識すると、他人と比較して優劣を感じることが減ってくる。

世間の評価基準は、唯一基準ではなくて、
色々な評価基準、価値観があり、その一つと考える。
自分の価値観が、周囲のメジャーな価値観と違っても、それはそれ、と自然に受け入れるようになった。

他人と比較しないから、優位だから幸せ、劣位だから不幸とも考えなくなる。

幸福学を研究する慶応の前野先生によると、『他人と比較できるもので得られる幸せは長続きしない』そうだ。

その事実とは、「お金やモノ、地位など他人と比較できるもので得られる幸せは長続きしない」ということです。たとえば、ある人が昇進して給料が上がったとします。もちろん、その瞬間はうれしいし、幸せを感じるでしょう。でも、もっと給料をもらっている人は世界にはいくらでもいる。上を目指せばきりがありません。そのことに気づき、せっかく給料が上がって得た幸せも、結局は長続きしないのです。
https://kodomo-manabi-labo.net/takashimaeno-interview-01

ちなみに、他人との比較は、幸福度を下げるだけでなく、”人間力を下げ、創造性を低下させる”らしい。

シンガポールの教育の例を紹介したい。
シンガポールは、2018年に「学校での順位記載を廃止」した。

(詳細はこちらの記事『シンガポールが教育方針を大転換、「学校での順位記載を廃止」のわけ』参照。)

シンガポールは言わずと知れた教育先進国。
OECDの国際的な学力調査PISAで、科学・読解・数学の三分野で世界一位(2015年)であり、大学ランキングでも常に世界上位に位置する。

そのシンガポールで、順位付けを廃止するようになった。
これまでは、日本同様に成績表やクラスの順位を記載し、競争意欲が学習のモチベーションを上げると考えられてきた。
しかし、他人との競争や比較は逆に個人の成長を阻害してしまう。
学習とは他人と勝った負けたの競争ではなく、自分を磨くための行為である。

特に、現代社会に必要な人材は、豊かな創造性、共感性、調整力、感情知性が大切で、これらは他人との過度な競争からは育まれない。

という理由から、順位付けを廃止したとの事だ。

シンガポールで教育政策に関わった知人は”熱烈な受験戦争の教育政策の結果として、起業家が生まれなくなってしまった”と嘆いていた。

他人との比較、競争による教育は、自己の価値観を育まない。
他人が決めたルールで勝負する習慣がついてしまい、自分の価値観がで考えないようになる。
変に賢くなってしまい、モノゴトを合理的に判断しようとする。不確実性の高い選択を選ばなくなる。

”起業家(アントレプレナー)”は、世の中にないものを生み出そうとする。
最初は周囲に理解されない事も多い。それでも、自分の信念を信じて突き進む。
世の中、不確実なことばかり。その不確実を確実に変えていく気概が必要になる。

他人との比較、競争をモチベーションにした教育からは変革者(イノベーター)や起業家(アントレプレナー)が育たない。とのことだ。

世間の評価、他人の価値観で生きる事は、幸福度を下げるだけでなく、不確実な時代を生き抜くスキル・マインドを損なう可能性があるというのは興味深い。

他人の価値観を受け入れられるのは、自分の価値基準があるから?

他人の価値観を受け入れるのは中々難しい。
特に、自分の考えと大きく異なる場合、反論するか、拒絶するか、遠ざけようとする。

そのまま受け入れるのは難しい。

一見矛盾するようだが、自分の価値観が醸成されると、他人の価値観との距離感が掴める。

自分の価値観が確立していない場合、つまり基準となる軸が無い場合、

『相手の価値観を受け入れる=自分もその価値観に納得する』と捉えがちだ。
その価値観は正しいか、正しくないか?、自分にとって都合がいいか、で考えてしまう。

自分の価値観という土台があるからこそ、他人の価値観を相対化して捉えられるし、自分の価値観が唯一絶対の基準ではないと気づける。
(※価値観の土台をもつ事と、自分の考えに固執して頑固になるのは別なるので注意が必要)

自分の土台がないうちは、色々なものに流される。。

理解できない価値観に触れると、流されるのが怖くて、『間違っている』と拒絶したくなる。

マウンティング行為や批判とは、流されるのが怖いから取ってしまう行動かもしれない。

自分の土台が固まると、逆にフラットな姿勢で接する事ができるので、柔軟になる。
世間の価値基準と自分の価値基準が違っても、自己矛盾を起こさない。
一旦違うものとして、理解しようと努める。受け入れてみようと咀嚼する。

良い意味で、『他人は他人』『世間は世間』と割り切れるからこそ、他者への許容が高まるのかもしれない。

価値観は他者を通して磨かれる

ここで注意があるとすれば、”価値観の確立ありき”と考える事だ。

”価値観を確立する”と聞くと、
『あー、自分は価値観が固まってないので、まずは自分一人で価値観を固めよう』
『価値観が固まらないうちは、他者と接するのを控えよう』
と考える人がいる。


でも、”価値観”は生き物のように人生を通して成長を続ける。変化し続ける。
価値観の確立という表現は誤解を与える。
価値観は日々変わっていくものだ。

そして、自己の価値観は他者との交流を通して磨かれる。
様々な経験をして失敗して右往左往しながら積み上げていく。
他者との建設的なコミュニケーションを通して、相互に学び合いながら醸成されていく。


ウガンダで事業をしていると、日本で培ってきた商習慣、常識が通用しない事も多い。
『普通はこうするのに・・』というのが通用しない。
こういう状況におかれると、その商習慣・常識が生まれた根本に目を向けると理解が進む。
商習慣が生まれた背景(前提条件)、”常識”とされる行動の根源倫理まで立ち戻る。

ウガンダ人スタッフと議論し、時には激しく口論しながら、自分を見つめ直していく。
そのプロセスの中で、『自分にとって大事なものは何か?』がはっきりしてきたように思う。

この過程で、凝り固まった常識を何度も壊す必要が出てきた。

特段、善悪や正義の”常識”を崩すのは難しい。
”善悪”をイチかゼロか(正しい・正しくない)と単純化せずに捉えるようになった。
”正義”という形のないものに固執せずに、視野を広げて相手や現象を理解するようになった。

さいごに

自分の価値観を醸成する第一歩は、世の中に出回る評価基準、価値基準、道徳、哲学に疑問を投げかけてみることから始まる。

日々の決断をする中で、”周りが言うから””皆がそうしているから”という惰性に気づき、”自分は?”と投げかけてみる。
徐々に自分のスタンスの輪郭が浮かび上がってくる。
基準が出来ると、世に出回る色々な価値観に気づく。その多様な価値観に驚く。

世間の評価、他人の価値基準に必要以上に振り回されなくなる。
勝ち負けで劣等感を感じたり、優位だからとマウンティングしたり、劣位だからとコンプレックスを感じる事が少なくなる。
変に周りに流されないから、合わせようとしないから、感情の波が安定する。
だから、幸福度が高まるのだと思う。

そして、日々失敗しながら、試しながら、価値観を育てていく。
他人の価値観に触れあいながら、価値観を磨いていく。
変なバイアスを取り払って他人を見れるようになる。

だから、人間関係も良くなるのかもしれない。

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