【神奈川のこと26】日本の学校には行きたくない!(横浜市中区根岸旭台)

今日は、5年前に亡くなった母の誕生日なので、このことを書く。私が、母を最も困らせたであろう出来事の一つである。

昭和51年(1976年)9月に、父の母校である山手のセント・ジョセフ・インターナショナルスクール(センジョ)に入学した。

私は友達も出来て楽しく通っていたし、両親の教育方針で入ったわけだが、しばらくして、母はどうもその教育環境に疑問を持ったようだ。

父が通っていた1950年代と、私が通った1970年代は、ずい分と学校の様子が異なっていたようであるが、当の私にとっては、そんなことは分かるはずもない。ただ、どうしても母は「このままではまずい」と考えていたようだ。

そこで、母は私を日本の学校、つまり、当時住んでいた地元の横浜市立根岸小学校に転校させることを決めた。程なくしてある日、根岸小学校の先生が家にやってきた。

「こんにちは。」と優しい笑顔でその先生は玄関から入ってきた。私には、その先生が、私をさらいに来た悪魔に見えた。

すぐさまキッチンのテーブルの下に潜り込み、「嫌だ、日本の学校には行きたくない!」と叫んだ。

いよいよ、その先生が家の中に入ってくると、今度は、庭に飛び出して、一番隅のフェンスにしがみつき「嫌だ、絶対に嫌だ、I don't wanna go!」と泣きながら力の限り叫んだ。英語も使って、マンション中に響かせるぐらいの大きな声で叫ぶことで、悪魔を引き返させたかった。

母は、「びっくん、お願いだから話を聞いてちょうだい!」と涙ながらに訴えた。予想以上の激しい抵抗を見せた私に困惑しながら、ベランダから懸命に訴えかける母の表情を、はっきりと記憶に留めている。

その後のことは覚えていない。

結局、私は根岸小学校には行かず、そのままセンジョに通い続けた。

そして、昭和53年(1978年)1月、鎌倉市に引っ越した後、2ヶ月ほど鎌倉からセンジョに通い、4月には西鎌倉小学校に転校した。その時は、抵抗した覚えは一切なく、実にすんなりと転校を果たした。

なにゆえに、あの時はあそこまで抵抗したのか。それは、日本の学校に行くことが怖かったからだ。上手く言えないのだが、とても怖かったのだ。

今振り返ると、あんなに母を困らせたことは申し訳なかったなと思う。しかし、あの時の必死の抵抗は、決して間違いではなかったと確信する。よくぞあそこまで抵抗したと、当時の自分に言いたい。

大人になってから、誰かに向かって、あそこまではっきり「NO!」と言ったことはない。これを書いていたら、思い切って言ってみたい気分になった。「NO!、嫌だ!、I don't wanna go!」 と。

尚、母の誕生日は11月8日、私は8月11日、父は8月18日。

一か八かの人生だ。


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