【神奈川のこと47】のり、要司、トシ& Billy(平塚市、茅ヶ崎市、藤沢市&鎌倉市)

大学時代、ゴールデンウイークになると、親友4人で自転車旅行をした。

よって、これを書く。

平成元年(1989年)、東海大学法学部に入学。

すぐさま、小学校から大学までずっと一緒のゆきちゃんの紹介で、綾瀬市にあるTry学習教室の講師として中学生向けに英語を教え始めた。

そこに我が母校、東海大相模高校の同級生で、大学では経営工学部の要司とトシも講師として入ってきた。要司は茅ヶ崎、トシは藤沢にそれぞれ自宅があった。

高校時代、要司はサッカー部で、トシはラグビー部、そして私は陸上部だったので、同じグラウンドで毎日練習をしていた仲だ。

のりは、東海大学湘南キャンパスのある平塚市民。公立高校から東海大学に進学。経営工学部に入り、要司とトシと知り合った。

やがて4人は親友となった。

大学2年のゴールデンウイークに、富士五湖を巡る自転車旅行を企画した。テントや諸々のキャンプ道具を自転車に括り付けて、4人の中で最も西にあるのりの平塚の家に集合。

朝もやの中、平塚を出発。湘南キャンパスの前を通り、国道246号線を西へ西へと走った。山北町から静岡県小山町に入り、最大の難所は山中湖へ続く山道。とうとう、自転車を降りて、押し歩いた。一生登り続けなければならないのかと思えるほど気が遠くなったが、やがて頂上は訪れた。下りを走る爽快さと言ったらなかった。そんなこんなで、3泊か4泊かけて、富士五湖を回り、平塚ののりの家で解散。そこから134号線を通って鎌倉に帰るのもまた、一苦労であった。

そんなゴールデンウイークの自転車の旅を、3年次には房総半島へ、4年次は西伊豆へと続けた。東へ旅する時には、鎌倉の私の家が集合と解散場所となり、西へ旅する時には同様に平塚ののりの家がそうなった。

夏には当時、のりのお父さんが営んでいた不動産業の仕事仲間が共同所有していたヨットに乗って、三浦市三崎町の諸磯の港から出帆し、相模湾をセーリングした。バブルの時代だった。

別にいつも4人一緒ってわけではなかった。趣味や嗜好はそれぞれだった。のりは塾講師を一緒にやっていなかったし、トシは佐野元春のコンサートには行かなかった。のりと私はスモーカーだったが、要司とトシはノンスモーカー。のりの抱く文学や芸術への強い興味に私は惹かれたが、要司とトシは興味を示さなかった。

でも何かが繋がっていた。

キャンプでは一つのテントに4人で寝袋にくるまって眠った。西伊豆の河原で夜中に大雨が降ってきたことがあった。のりと私は「眠いからもういいじゃん」と主張したが、要司とトシは、「いや、ダメ。テントに雨が入らないようにするんだ」と言って見事に修復させた。大したもんだ。

4年次の自転車旅行の最終日、御殿場に泊まった翌日、乙女峠へと続く登り坂でのりと私は大ゲンカをした。でも頂上付近、静岡と神奈川の県境で撮った写真には、二人ともとびきりの笑顔で写っている。そんなもんだ。

平成5年(1993年)、大学を卒業。要司とトシは、製造業に就職し、今でもその会社でがんばっている。一方、のりと私はサービス系業界に就職し、これまで何度か転職している。まあ、そういうことだ。

平塚、茅ヶ崎、藤沢、そして鎌倉。神奈川が育んだ友情。平成元年(1989年)に出逢ってから32年。

覚えているだろうか?

山中湖の閉鎖したキャンプ場に忍び込み、テントを張ってサントリーの「だるま」を回し飲んだことを。房総を巡る旅で久里浜港に向かう葉山の道を、南房総の日差しと潮風を。そして、夜の諸磯港で小舟を漕ぎ出したあの星空を。

トシのチェイサー、要司のカロッⅡ、Billyのロードスター、のりのチャリ。

世の中が落ち着いたら、久しぶりに4人で酒を酌み交わそう。





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